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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『ブラッド・メリディアン』コーマック・マッカーシー

[戦争がなければ人は土くれ]
Cormac McCarthy Blood Meredian or the Evening Redness in the West,1985.

ブラッド・メリディアン

ブラッド・メリディアン

こうして2つの集団は真夜中の平原で分かれてそれぞれが他方のたどってきた道をたどり、すべての旅人がしなければならないように他人の旅路の上で果てしない反転を行っていくのだった。

この世界のあり方は花が咲いて散って枯れるというものだが人間に関しては衰えというものがなく生命力の発現が最高潮に達する正午が夜の始まりの合図となる。……人間の絶頂(メリディアン)は同時に黄昏でもあるんだ。


 「命の価値」について考察する時、「自分の命と他人の命は同等か」という問いにぶちあたる。もちろん、倫理的に答えるなら「すべての命の価値は等価である」。しかし、タイタニック沈没においてはまず女子供が救助ボートに乗り、老人は後に残された。切り裂きジャックアンネ・フランクどちらかを選んでボートに乗せるとしたら、「公平にじゃんけんで決めましょう」と提案する人間がどれほどいるだろう?

 命の価値は等価ではない。「倫理」は、強者の権利を奪い弱者を助けるために、人類がでっちあげたものである――『ブラッド・メリディアン』は声高にこう叫ぶ。


 アメリカ開拓時代を「血と暴力」のみで描き出した、とんでもない小説。世界史で勉強した「アパッチ族」や「西部開拓」が、いかに薄っぺらいものだったかがよく分かる。

 ある「少年」が、インディアンの頭皮を剥ぐ略奪部隊に参加する。頭皮剥ぎ隊の親玉は「判事」と呼ばれる男だ。とにかく、この「判事」のキャラクターが圧倒的である。このうえなく優雅な物腰で数ヶ国語に精通し、知識と武力を持ちながら、オペラ指揮者のように残虐を敢行する。体毛が一本もない巨漢で、夜中に上半身裸で一日の記録を取る。むやみやたらな個性の強さは一体何なのか!


 本書を読んでいると、心の中に荒野が生まれる。土埃が舞い、干からびた頭蓋骨と腐乱死体が転がり、脳しょう混じる血だまりの中に泡が浮かんでぱちんと消えるような、殺伐とした荒野が見えてくる。一切の正義や倫理を許さない、淡々とした暴力描写がすさまじい。主人公たちの部隊は賞金のためにインディアン一族を襲撃し、頭蓋骨を叩き割って頭皮を剥いでいく。「守る」と称している市民ですら、躊躇なくぶち殺す。
 

 「この世に神などいない! と絶叫したくなるほど世界が煮詰められると、逆に“神の存在”が見えてくる」。これが、本書の根底に流れる原則であると思った。

 この世界では、命を掛け金にしてルーレットが幾度も回転する。死のルーレットが回れば回るほど、力がない人間や運がない人間は死に、「たまたま生き残る確率」がどんどん減っていく。「判事」は、「生き残る運命を持つ人間のみが生き残る」という運命感を持っていた。そして、自分はその勝負に勝ち残るとも。だからこそ、執拗なまでに残虐は繰り返される。

 「弱者でできた橋を乗り越え、超人は大いなる正午(メリディアン)へ突き進め」と叫んだツァラトゥストラのように、判事は「生き残れない者は死んでいけ」と呼びかけてくる。砂漠で、姿を隠している少年に向かって判事が演説する場面では、判事の悪魔ぶりと超人ぶりが絶頂を迎える。圧巻である。

人間の命と荒野の岩は、思いもよらぬ共通点を持つ。

 読みにくいこと極まるが、とにかく壮絶だった。荒野と血と涙は神話の母であり、臓物をさらけ出さなければ人を超えることはできない。この強烈な狂信が、ニーチェあるいはナチスのように、あらゆるものの心臓に一斉掃射をしかけてくる。狂っているのはこんなに真っ赤で真っ黒な世界なのか、それともこの世界を哄笑しながら駆け抜ける狂信者なのか? 一瞬たりともこの世界には存在したくないと思わせられる小説。

recommend:
ニーチェツァラトゥストラかく語りき』…「大いなる正午」にたどり着く「超人」となれ。
ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』…アメリカ南部の差別について、コンマもなくしゃべりまくる。
チェスタトン『木曜日だった男』…「日曜日」と「判事」のキャラクターが(ちょっとだけ)被る。
平野耕太ヘルシング』…「闘争」の本質を見事に言い当てた漫画。正直、内容的にはこれが一番近いと思った。