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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『トラストD.E.―小説・ヨーロッパ撲滅史』イリヤ・エレンブルグ

[愛しているから滅ぼしたい]
Илья Григорьевич Эренбург Трест Д.Е.,1923.

トラストDE―小説・ヨーロッパ撲滅史 (文学の迷宮)

トラストDE―小説・ヨーロッパ撲滅史 (文学の迷宮)


 愛するがゆえに、ヨーロッパを滅亡させた男の物語。
 1920年代のソ連で生まれた、寓話的なディストピア。「自ら破壊しながらノスタルジーにふける」という離れ業をやってのける男をユーモラスに、しかし淡々と描き出す絶品の小説。陰鬱なディストピア小説には辟易しているが、本書のようなものなら歓迎だ。


 モナコ公の落胤エンス・ボートはヨーロッパで育った後にアメリカへ渡り、ヨーロッパを絶滅させることを思いつく。
 エンス・ボートの行動はすばやい。「トラストD.E.=ヨーロッパ絶滅トラスト」という組織を立ち上げて基金を募り、表向きはさまざまな公共事業(デトロイト建設トラストなど)を行いながら、その裏でヨーロッパの国々を潰していく。12年後の歳月をかけて、イギリスやフランスにイタリア、その他名だたるヨーロッパの列強国を灰燼に帰した。


 『国の滅ぼし方』というタイトルで新書刊行されてもいいぐらい、多様な国の滅ぼし方が目白押しの作品だった。一国を滅ぼしたいのなら、戦争などの外部刺激よりも、内部からの崩壊をそそのかした方がいいらしい。フランスは「アフロ」という麻薬、イタリアは奇病、イギリスはハイパーデフレによって自壊した(そのきっかけはすべてトラストD.E.によるものだが)。


 本書のおもしろさは「ホワイダニット」――なぜエンス・ボートがこれほどの大犯罪を起こしたかという「理由」にある。彼が「ヨーロッパを滅ぼそう」と思ったきっかけは、後の観測者からすれば些細なものだったが、彼にとってはクリティカルな出来事だった。
 おそらく歴史の転換点は、政治運動や研究室からではなく、こんな些細な事柄によってもたらされるのだろう。物語はこう語る。「エンス・ボートに思想はなかった」。

 かえりみれば、12年の歳月は、3億5千万を越える人間が住む世界の一大州を滅ぼすにはかなり長い期間であった。だが、その長い歳月も、エンス・ボートの胸のうちに燃えている愛の焔を消すことはできなかった。もしこの著作が何人かの尊敬すべき学者たちに見過ごされる恐れがなかったら、『ヨーロッパ滅亡物語』という副題を、事件の真の本質にもっとふさわしい別の副題に改めたに違いない。

 「すばらしい剃刀が20セント!」「古代エジプト王フェルンカヌンの臨終の言葉」「『アフロを100個、大至急……』」など、「え、何それ?」といいたくなるユーモラスな副題がついているため、さくさく楽しみながら読める。一方で、国が荒れてばたばたと人が死んでいく描写がひたすら淡々としているせいか、全体的に奇妙な迫力と余韻が残る。

 ヨーロッパは荒野になった。荒野は絶えず人の命を食らい続けながら、それでもまだ人を恋しがって吼える。エンス・ボートの心もまた荒野のようであった。


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