ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『青い野を歩く』クレア・キーガン

 人生のある時点で、ふたりの人間が同じことを望むことはまずない。人として生きるなかで、ときにそれはなによりもつらい。

 だれかに触れられたのは3年ぶりで、他人の手の優しさに、彼ははっとする。どうして、やさしさのほうが怪我よりも人を無力にするのだろう? ――「青い野を歩く」より

秘めた心を

 振り返ってみれば、白水社が「エクス・リブリス」シリーズを刊行し始めたのは、2009年のことだった。もうずいぶん長い間付き合ってきたような気がするが、まだそんなものだったらしい。このシリーズはどれも好きだが、中でも本作はすばらしかった。

青い野を歩く (エクス・リブリス)

青い野を歩く (エクス・リブリス)

 アイルランドの女性作家が描く、憂愁のアイリッシュ・バラッド短編集である。息を吸いこめば肺の中まで夕暮れの青に染まるような、深く冷たい憂いの空気が満ちみちている。登場人物は多くを語らない。しかし、ある瞬間に過去や思いが堰を切ったようにあふれ出てくる。熱心なカトリック信仰が根づく保守的な世界だからこそ、多くの語られない思いと言葉があったのだろうか。
 アイルランド好きであるため即買いだったが、直感にたがわぬ出来でとてもよかった。特に、表題作は白眉の出来。以下、各編の感想。気に入ったものには*。


別れの贈りもの:
 ニューヨークへと旅立つ娘と家族の会話。「外の草地には梅雨が降り、空白のページのように白く広がっている」「今日は干し草日和だ」という情景描写が美しい。なぜ娘が父親の部屋に入りたがらないのか、それは淡々と示される過去の関係によって明らかになる。

青い野を歩く:
 これだけでも読んだ方がいい、と強くおすすめしたい一編。神父が、ある新婚夫婦の結婚式を執り行う。しかし、神父はかつて花嫁と恋仲にあった。「別れの贈りもの」でもそうだが、本書には一見「道徳的でない」関係が散見する。しかし、ローカルコミュニティでは逆にこういう関係が普通にあったことだとも思うのだ。誰もがそのことを知り、誰もが口をつぐんでいる。神父の独白が胸に迫る。かつてのぬくもりの記憶を抱えて、神父はひとり青い野を歩く。

長く苦しい死:
 文学者の家を借りながら小説を書く女性のもとに、「家を見せてほしい」と見知らぬ男性がやってくる。ひそやかな期待と的外れ。小説家ならではの、小さな復讐方法とでもいうべきか。

褐色の馬:
 かつて傍にいてくれた、やさしい女は去った。恋人がいなくなったことを後悔する男の独白。これまでの作品にあるひとつの要素を抽出したような作品。これはわりと普通。

森番の娘:
 森番夫婦と家族のぎこちない関係。夫は娘の出生を疑っているが、まさか妻が家を出ていこうとしているとは考えていなかった(ここらへんが、男の能天気なところでもある)。一方、妻は何も語らない。かつてのひそやかな情事も、夫への愛がないことも。寡黙な妻が、あるところで「物語」という手段で饒舌になる、スイッチの切り替えが見事。本書の中では、わりとハッピーエンド? な方ではないだろうか。

波打ち際で:
 人生の分岐点、波打ち際に立つ。青年の祖母は、若い頃にどうしても海が見たくて、「1時間だけ」という限定つきで、たった一度だけ祖父に連れていってもらった。冷徹な祖父に置き去りにされそうになった祖母は、しかし祖父の車に乗って家に帰る。なぜ車に乗ったのか? そこが人生の分かれ道。そして、孫の青年もまた、同じ分岐点に立つ。短編としての構成が、小憎らしいほどに美しい。

降伏:
 結婚は男にとって「降伏」である。いかにもローカルな雰囲気が味わえる作品。最後に、自分の将来の姿をかいま見る男の心持ちやいかに。

クイックン・ツリーの夜:
 他者とのかかわりを拒んだ男女の、つかのまの関係と別れ。雌羊のジョゼフィーヌと暮らす(しかも同じベッドで寝る)男と、神父との恋が実らなかった女。「足を洗った水は外に捨てる」というアイルランドの慣習が興味深い。

 「俺は恋をしたことがないんだ。俺にはジョゼフィーヌしかいないんだ」
 「心が粉々になりそうな話ね」
 「あんたの心は、もう粉々じゃないか」

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Claire Keegan Walk in the blue fields,2007.