ボヘミアの海岸線

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『アブサロム、アブサロム!』ウィリアム・フォークナー

[なぜ、なぜ、なぜ]
William Cuthbert Faulkner Absalom, Absalom!,1936

アブサロム、アブサロム! (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-9)

アブサロム、アブサロム! (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-9)

 彼は口ごもることもなく、シュリーヴの言葉をまたいでコンマもコロンも段落もつけずにどんどん続けていった。

 「ちょっと待ってくれ。後生だから待ってくれ」

 

 「南部、南部か」と、登場人物のシュリーヴは言った。私も思わず同じつぶやきをもらす。南部、南部、何という土地なのか!

 フォークナーは、アメリカ南部に「ヨクナパトーファ郡」という架空の土地を幻視し、煮えたぎる血縁と因縁の物語を語りあげた作家である。ガルシア=マルケスや中上健次、莫言やボルヘスらが影響を受けた「父」ともいえるべき存在。彼の文体は重厚で濃密で、拷問台のねじのように、体の芯がぎりぎりと締め上げられるような心地がする。


 トマス・サトペンという成り上がり者の盛衰を語る物語である。プア・ホワイト(貧しい白人)であった彼は、立派な荘園と屋敷を持ち、自分の財産を作ることを試みる。広大な「サトペン・ハンドレッド」という荘園を築き上げた彼は、自分の望みを叶えるために奔走するが、とある過ちがきっかけで破滅する。

 本書はとりあえず、誰もが語りまくる。「客観的な叙述」などという親切なものは存在しない。誰もが自分の聞いたことや見たことを頼りに物語を作り上げ、想像し、コンマもコロンもつけずに延々と語り続ける。前後の脈絡? 整合性? 真実かどうか? そんなものはない。そもそも人の生や歴史を「客観的」に語ることなど、誰一人できはしない。こんな態度が徹底して貫かれているため、そりゃあもう読みにくい。例えばこんな具合である。

 ウォッシュには彼らの声さえ聞こえるようだった――<ウォッシュ・ジョーンズ爺もついに転んだか。サトペンをつかまえたつもりだったのに、サトペンに愚弄されたんだ。> そんなふうに考えているうちに、しまいには大声で叫びだしたというんだ。『そんなこたあ思いもよらなかったですわ、大佐! いやまったく!』そこでまた孫娘が目を覚まし……

 この語り手は主人公(語り手)の一人であるクウェンティン青年。聞き手はカナダ人の同級生 シュリーヴ。どちらもサトペンやウォッシュ爺と面識はない。しかし、彼らは心の中を想像し、会話を再現し、身振り手振りの様子までつぶさに語りまくる。43年間喪服を着続けているミス・ローザ、サトペンの話を受け継いだクウェンティン父も同様にしゃべるので、話の糸がほどけたかと思いきやまた絡まって、なかなか進めない。
 

 おそらくこの物語の主軸は、「なぜ、なぜ、なぜ」という叫びだ。ミス・ローザは43年間「なぜ」を考え続け、クウェンティンもとり憑かれた。なぜこんなことに。彼はなぜこんなことをしたのか。

 サトペンの望み、荘園を作った理由はたったひとつだった。実にシンプルな答えなのだが、それは何人ものポリフォニーを介してでなければ分からない仕組みになっている。サトペンの盲執が生み出した結果は、彼がもっとも望まないものだった。血の破滅。


 この物語には、歴史と土地の因縁が深くふかく根付いているのだと思う。南北戦争で負けた南部は、黒人を使う奴隷州だった。人々は、黒人への歴然とした差別意識と、ピューリタン的な潔癖症(サトペンは純粋だった、と本書の中では書かれている)を持っていた。「南部ってどんな所だい? 南部のひとはなにをしているの? なんで南部なんかに住んでるの? そもそも南部のひとはなぜ生きてるの?」と、北部の人間が無邪気に聞いてくる。南部はそんな土地柄だった。

 フォークナーを読むと、血管がちりちりしてくる。脳みそがぐらぐらする。意識の境目があいまいになる。そして最後は呆然とする。あまりに強烈な世界だったものだから、脳みそにへこみができた。このへこみは形状記憶だ。心のなにかをへこませたまま、わたしはこれから生きていく。なんということだ。なんということだ。


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