ボヘミアの海岸線

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『ハムレット』ウィリアム・シェイクスピア

[それが疑問だ]
William Sharekspeare Hamlet,1602?

ハムレット (白水Uブックス (23))

ハムレット (白水Uブックス (23))

ハムレット: 
死ぬ、眠る、
それだけだ。眠ることによって終止符はうてる、
心の悩みにも、肉体につきまとう
かずかずの苦しみにも。それこそ願ってもない
終わりではないか。死ぬ、眠る、
眠る、おそらくは夢を見る。そこだ、つまずくのは。
この世のわずらいからかろうじてのがれ、
永の眠りにつき、そこでどんな夢を見る? 
それがあるからためらうのだ、それを思うから
苦しい人生をいつまでも長引かすのだ。(第3幕第1場)


 シェイクスピア作品の感想を書いているわりに、なぜ4大悲劇を無視しているのかと言われた。別に無視していたわけではない、書くとあまりに量が膨大になるだろうと思ったから。まあつまりは「筆不精」というやつだ、すみません。


 本劇は、復讐を果たそうとして果たせなかった「迷える王子」ハムレットにまつわる悲劇である。デンマーク王クローディアスは、自分の兄であるハムレットの父を殺して王位を簒奪、ついでハムレットの母を娶った。叔父に父と母を奪われたハムレットは、叔父王に復讐を誓う……のだが、果たせない。彼は迷う、独白する、瞑想して迷走する。通常、復讐を誓う人間は強い動機によって突き動かされて、破滅への道をひた進むものだ。しかし、ハムレットは行動しない。
 そう、彼はあまりに「軸」がなさすぎる。「いったい、何なんだこいつは!」読んでいてその心の多重性に思わず目をみはる。あと一歩で決壊してしまいそうなぐらい、心と行為が一致していない。ハリウッド映画なら絶対にありえない、復讐をやり遂げない主人公である。

 作品の中で最も豊かなのは、ハムレットの独り言だ。特に、彼が彼自身について述べる場面は圧巻である。

ハムレット:
ところがおれは、なんてぐず愚鈍な怠け者だ、大事を忘れ、言うべきことも言わず、夢遊病者のようにふらふらとうろついているだけではないか。王権も大事ないのちも残忍非常に奪われた国王のためにさえなにもしない。おれは卑怯者か? だれだ、おれを悪党呼ばわりするのは?……
はっ! なんと言われようと甘受するほかない。このおれははとのように気弱で、屈辱を苦々しいと思う勇気さえかけているのだ。……
おお、復讐! しょせん駄馬にも劣るのか、おれは。りっぱなものだ、敬愛する父を殺され、天国も地獄も声を合わせて復讐を迫るというのに、淫売のようにただも憂さ晴らしに胸の思いを吐き散らし、性悪女のように口汚くわめきたてるのみだ。下司女と変わりはせん!(第2幕第2場)

 ハムレットの独白はこんなにも豊穣なのに、行動は中途半端。以下は、復讐のチャンスが訪れた時のハムレットの迷い。

ハムレット:
いまならやれるぞ、祈りの最中だ。やるか。やればやつを天国に送り込み、復讐ははたされる。待て、それでいいか。悪党が父上を殺した、そのお返しに一人息子のこのおれが、その悪党を天国に送る。これではやとわれ仕事だ、復讐にはならぬ。(第3幕第3場)

 「よし、復讐をするぞ!」とわめきながら、その実することは芝居で改心させることだったり、母を糾弾することだったりする。勘違いで人を殺し、オフィーリアを狂気に陥れて失い、剣試合などに出場したあげくに命を落とす。あそこまで追い詰められなければ、彼は復讐を果たせなかった。こんなにわけが分からないのに、ハムレットはあまりにも「人間」すぎる。そう強烈に思わせる何かがある。
 
 小田島雄志氏が「ハムレットを演じるには、少なくとも8つの顔が必要だ」と書いていた記憶がある。さもありなん、これほどの混沌とした役を演じるには、生半可な演技力では無理なのだろうと思う。でも、だからこそ一度は本場イギリスで観劇したい。まずはこれにて閉幕。続編はいずれ。あとは沈黙。


シェイクスピア全集


recommend:
小田島雄志『珈琲店のシェイクスピア』…訳者のエッセイ。演劇批評が面白い。

余談

私が『ハムレット』と最初に出会ったのは小学校低学年のころ、きっかけは地元の本屋での立ち読みだった。どこかの雑誌で「英語の名言特集」をやっていて、かの有名なセリフが紹介されていたのだ。
「To be, or not to be: that is the question」。
子供心ながらになんて格好いいセリフだと思った。雑誌を買うお金なんてなかったから、その場でこのセリフを暗記して帰った。以来、『ハムレット』は敬愛するシェイクスピア作品の中でも特別な意味を持つ。
このセリフは「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という訳が有名だ。今回私が紹介する小田島訳では「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」となっている。ちなみに坪内逍遥は「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ」と訳した。冒頭で引用したハムレットのセリフは「To be, or not to be」の続きだが、これは生死についてハムレットが迷いまくる屈指の名場面。墓場のシーンと並んで好きだ。