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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『黒い時計の旅』スティーブ・エリクソン

[交錯する20世紀たち]
Stive Erickson Tours of the Black Clock,1989.

黒い時計の旅 (白水uブックス)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

お前はおれを覚えているはずだ。何といってもこれは20世紀がまっ二つに切り裂かれる瞬間なのだ。

3年後、のぼり行く月がバニング・ジェーンライトの20世紀からもうひとつの20世紀へとひそかに移動する。

 
 現代アメリカ作家が描く、2つの「20世紀」の物語。
 20世紀の忘れがたい傷跡としての「ナチス・ドイツ」。ヒトラーが負けたのはソビエト進軍が原因といわれているが、もしヒトラーがソビエト進軍をしなかったとしたら?
 物語はヒトラーが死んだ私たちの20世紀と、ヒトラーが生き続けるもう1つの20世紀、2つの「20世紀」を舞台に展開する。2つの世界は、霧の深い川の上に浮かぶボートのようだ。同じ速度で進み、時折顔を合わせては交錯し、また離れていく。でも、2つの世界はお互いに侵食もしている。1つの世界で想像したことが、もう1つの世界では現実となる。


 幻想がひたひたと滴るような小説だった。この世界の原動力は「人の心と想像力」だ。心と妄想は、文字どおりの意味で「歴史を産み落とす」。2つの20世紀は、ある男女が目線を合わせた瞬間に、ビッグバンのように弾けて生まれるのだ。
 男の名はバニング・ジェーンライト。身の丈の大きな男で、ナチスのお抱えポルノ作家だ。女の名前はデーニア。美しくはないが、男の人生を狂わせるダンサーである。
 彼らはそれぞれ別の20世紀を生きていて、人生のうちにたった二度しか顔を会わせない。しかし、物語の爆心地は彼らなのだ。男は、女を空想上の恋人として夢想し、小説の中で犯した。女は、男の復讐を打ち砕いて、男に名前を与えた。あらすじを書こうとすると大変なことになってしまうが、事実こういう物語なのである(世の中には、あらすじを書くのがまったく無意味な物語がある。おそらく本書もそのひとつ)。


 歴史は、人間の幻想によって編み出される巨大な「物語」として描かれる。おそらくボルヘスが論理で組み上げる「世界のしくみ」を、エリクソンは論理も構築もなにもかも吹っ飛ばして「人が生み出す幻想」のみで織り上げた。「もう1つの20世紀」を作り出してしまうほどの妄執を愛と呼ぶのなら、世界は不完全な神が愛した、ただ一夜の幻想にすぎないかもしれない。氷の音と時計の音は重なり、カチ、カチ、カチと何か――それは私たちが知っているつもりになっている「歴史」ではない――を刻み続ける。
 世界の歯車を「人間の心と幻想」で構築し、動かしきるエリクソンは何者なんだろう。「歴史って何だ、20世紀って何なんだ」と、読み終わった瞬間につぶやいた。


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