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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『罪と罰』ドストエフスキー

[罪は意識]
Фёдор Михайлович Достоевский,Преступление и наказание,1866.

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

 「人間には空気が必要ですよ、空気、空気が……何よりも!」


 ドストエフスキー作品は超一流のエンターテイメントである。私にとって「変態」と「エンターテイメントとしていける」は最高の褒め言葉だが、ややもすると誤解を招く。まあつまりは「びっくりするような世界の提示」と「読んで面白い」ということだ。たぶんこの2つは、小説を読むシンプルな動機であるように思う。


 さて、ドストである。『カラマーゾフの兄弟』は、父殺しの犯人が分からない推理小説としても読める。比較してみるならば、『罪と罰』は最初から犯人が分かっていて犯人が追い詰められていく「コロンボ型推理小説」といえるだろう。
 繊細な青年であるラスコーリニコフは、ある盲執に憑り付かれていた。いわく「世の中には凡人と非凡人がいる。例えばナポレオンのような非凡人は、人を殺してもまったく罪悪感を感じない。そして私は、自分のことを非凡な人間だと思いたい。だったら、人を殺して何も気にやまないようにしよう」。ラスコーリニコフは、殺してもかまわないと思われる老婆を殺した。しかし、何の関係もない人間も巻き添えで殺してしまったことにより、歯車が狂い始める。


 ラスコーリニコフは不思議な人間だ。「凡人」でありたくがないゆえに人を殺し、おかげで発狂する。それでも彼の周りには人がたくさんいるし、家族も友人も恋人も彼を愛している。私自身、「なんだこの自己中心男は」と思いながらも、どうにも彼を見限れない。
 多くの人が「これは自分のことが書いてあるのか?」と思うような人物造詣だ。彼がそれなりに頭が良いことを自覚していて、そして人類共通の「自意識」という名の欠陥を持っているからだろう。
 たぶん、誰もが自分のことを特別な人間だと思いたい。なぜなら「自分」という存在はどこまでも自分について回るただひとつの存在だからだ。自分は自分にしかなれないのに、その自分がただの凡人であると知る時の衝撃といったら!

 この小説は、脇役の情感の豊かさがとても良い。一等気になるのが、判事のポルフィーリィとソーニャ、そしてダメダメの王様スヴィドリイロフ。ポルフィーリィは、ラスコーリニコフの中にかつての自分を見いだして、必死に彼を助けようとする「終わった人間」だ。追い詰めて、ラスコーリニコフの心を暴いて、「空気を吸いなさい」と叫ぶ。彼らの対話は下巻に収録されているが、これを読むために、あの長い長い上巻を読む価値はある。ソーニャのハイテンションぶりも強烈だ。「あなたを生んだ大地にキスして、謝りなさい!」はすごい。ラズミーヒンの、時に暑苦しく、時にウザい感じの友情も私はけっこう好きだ。


 「罪とは何か?」を考えていくと、つまりは行為ではなく「意識」なのではないかと思うようになる。よくよく突き詰めていけば、正当防衛でも難破船で人を見捨てるのも、結局は「人殺し」であることには変わらない。でも、本人が強く「罪だ」と思うか否かで、それは罪にもなりうるし、罪でなくなる可能性もある。
 人を100人殺すシリアルキラーにとっておそらく殺人は日常で、罪とは認識しない(パンを食べてなぜ非難されなければならないのか、といった感じで)。罪悪感がない者を罰することはできない。
 しかし、ラスコーリニコフは最初から最後まで孤独にはならなかった。ここらへんが19世紀だなあと思う。おそらく20世紀だったら、ラスコーリニコフの周りには誰もいないのではないだろうか。そういえば「20世紀は孤独の世紀である」と、誰かがいっていたような気がする。
 「罪」という意識と、「罰」という意識。本書は、この2つの意識に憑りつかれた、悩める青年の絶叫である。どう正当ぶってみたところで、おそらく理論で人は殺せない。人間は、やはり「心」に帰っていくんだなあ。
 

ドストエフスキーの著作レビュー:「地下室の手記」


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