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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

チェーホフ『桜の園・三人姉妹』


[失う惑い]
Антон Павлович Чехов;Вишнёвый сад ,1904. Три сестры,1901.

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

「失礼ですが、あなたがたのようなぬ分別な、世辞にうとい、奇怪千万な人間にゃまだお目にかかったことがありません。ちゃんとロシア語で、お宅の領地が売りに出ていると申し上げているのに、どうもおわかりにならんようだ」
「一体どうしろとおっしゃるの?教えてちょうだい。どうすればいいの?」 (「桜の園」より)


 19世紀ロシアで生まれた作家、チェーホフの4大劇のうちの2作品。「失うこと」と「先に進めないこと」について。

 舞台を想像しながらチェーホフ劇を読むと、ほとんど舞台上が動かないことに気がつく。人々は集まって「こんな大変なことが起こる」「どうしよう」「もう起こってしまった」と会話を繰り広げる。だけど舞台は静かなままで、外部の出来事は、「音」だけと、象徴的に処理される。まるで、日常には、「起承転結」のような礼儀正しい流れなど存在しない、とでもいうように。

 静かで少し苦い、だけどじんわりとにじむ人間への愛情―チェーホフの作品には、そんな雰囲気がある。大ぶりで型破りなものが多いロシア文学の中で、チェーホフの持つ都会的な細やかさ、軽やかさは目をひく。個人的には、劇より短篇の方が好きだが、この2作品の持つやるせなさ、それでも「生きていかなくてはならない」という、ロシア的な前向きさは好きだ。


桜の園」:
 自分の愛する桜の園のある家を売り渡さなくてはならなくなったラネーフスカヤ夫人。目の前に売却がせまっていても、まだ「どうしたらいいか分からないんだもの! 私は馬鹿なんだもの!」と嘆きながら金を使い続ける。チェーホフはこの作品を「喜劇」と呼んだ。確かにそうかもしれない。

 「なんでこの人はもっと合理的にやらないんだろう」と、苛立ちが募る部分は多々ある。だけど夫人はとても愛らしく、やさしい心の持ち主でもある。ただ、「現実的」に生きる能力が徹底的に欠けているだけだ。金持ち商人ロパーヒンと、没落貴族のラネーフスカヤ夫人の対照的な姿が印象に残る。

 「ああ早く、こんなことが過ぎてしまえばいい。なんとかして早く、このようながたぴしした、面白くもない生活が、がらりと変わってしまえばいい!」

 念願の桜の園を手に入れた瞬間に、ロパーヒンは涙を流してこう嘆いた。ここらへんの描き方が、チェーホフはすばらしいと思う。下克上にまつわる、苛立ちと喜び、そして喪失の悲しさが混ざった心が表れている台詞である。

 桜がロシアにもあることに、普通に驚いた。桜というと、どうしても日本のイメージが強すぎるから、ロシア農民の後ろに桜が満開になっている姿を思うと、なんか不思議な感じがする。


「三人姉妹」:
 三人姉妹が住む家に、いろいろな人がやってきて、話をしていく。思想の話、政治の話、家の話、結婚の話、恋の話……幕ごとに世の中は移ろって、三人姉妹の生活は苦しくなっていく。兄は借金を背負い、家は乗っ取られかけ、お金はない。夢は叶わない。現実は厳しくて、三人姉妹は、そのことに嘆いている。
 しかし、何か行動して積極的に変えようというわけではなくて、ただせまる現実に耐え忍んでいる。そんな彼女たちを訪ねてくる軍人たちも、どうにも風采が上がらない人たちばかりだ。それでも当たり前のように、恋の駆け引きは成立する。

 「しかし生活は、依然として今のままでしょう。生活はやっぱりむずかしく、謎にみち、しかも幸福でしょう。千年たったところで、人間はやっぱり、「ああ、生きるのはつらい!」と嘆息するでしょうが―」

 チェーホフ作品の根っことなる思想を感じた台詞。嘆いて、恋をして、失って、それでも生きていかなくてはならないのだと。


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