珈琲屋の英文学科たち
珈琲屋で、となりの会話が気になるのは、いったいなんの魔法だろうと思う。
広告、お知らせ、雑踏のざわめき、耳に飛び込むあらゆる音を、ほとんど気にしないで過ごせるのに、珈琲屋でのおとなりさんの会話だけはだめだ。シンボルスカを読んでいたのだが、大詩人でさえこの魔法をはじくことはできない。
となりに座っていたのは壮年の男性二人で、「単語」「テスト」「エッセイ」という会話の切れ端から推測するに、どうやら外国文学の教授らしい。どこか人好きのするような、一見地味だけどさわやかな雰囲気は、英語系の教師だろうと思った。仏文は絶対に白いシャツは着ないし、イスパニアはもっと声が大きい。露文は・・・あまり表に出てこないからわからない。研究室でウォトカでも飲んでいるイメージだ。
すると一人が、ヘンリー・ミラーの原文を持ちながら、翻訳の話をしている。ああ、やっぱり英語教師だったかと、内心うなずきながら、そ知らぬ顔で本のページをめくる。
「翻訳ってされています?」
「いやあ、やろうと思うんですが、まだ手をつけていないんですよねえ」
「そういえば、オースターの『幻影の書』読みました?」
「原文で少し。というか、柴田さんの訳の早さがありえないですよ」
「彼、読むより翻訳する方が速いといううわさですからね」
常々、柴田元幸はシバタ1号から3号ぐらいまでいるんじゃないかと疑っていたのだが、なるほどやっぱり英文業界でもそういう扱いなのかと妙に納得した。というか、読むより翻訳する方が速いってどういう意味だ。本は、読みながら翻訳するものじゃないのか。
「しかし、彼の訳したものって、全部柴田作品ですよね」
「そうだねえ、だからあんなに速いというのはあるんだろうなあ。結構原文と雰囲気が違うことってあるよね」
「あーありますね」うんぬん。
以前、ダイベックの講演会にいって、柴田氏の通訳を見たことがある。ダイベックの丁寧な話を、わりとさくっとまとめている感はあった。確かに、受ける印象は少し違ったように思う。ううむ、なるほど。
教授たちは、「そろそろ授業だ」といって、店を出ていった。
黒い皮のソファに沈みこみながら、翻訳ものを読む人間は、うだうだと何かを考える。翻訳で読むことのフィルタリングについてのジレンマとか、原文主義への反発とか、物語の存在とか、そんなことについて。
ペットミルクが、珈琲の中で渦をまいている。ぐるぐると回りながら、ポーの大うずまきになっていく。気づけばこつりと眠りに落ちていた。
…in the cafe.