ボヘミアの海岸線

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『砂時計』ダニロ・キシュ

[影揺れる]
Danilo Kis Pescanik, 1972.

砂時計 (東欧の想像力 1)

砂時計 (東欧の想像力 1)

…煙の道は、ランプにたどりつくまでは見えないが、火屋をすぎると、青みがかった色が流れていくのが見える。炎に近づいていく、一本の手。


 ほの暗い書斎の中で、ゆらりと炎が燃えている。一通の手紙が光のそばにあり、そこからまるで魔法のように、ある男、今はもういなくなってしまった男の肖像が立ちのぼる。

 ひさびさに魔法を見た。本書は、「E.S.」という男を中心とした物語の断片からできている。断片では、「旅の絵(写実描写)」「ある狂人の覚書(手記風)」「予審(他者の会話)」「証人尋問(会話形式)」といった、文学的なさまざまな形式が試みられる。

 文体はばらばらだし、なんのことを語っているのかもよくわからない。途中で「読みにくい……!」と何度投げ出しそうになったことか。まるで、ゆらめく炎の中を、いくつかの幻影が通り過ぎていくような感覚。つかもうと思ってもつかめない。なんだ、何を言いたいんだ? と目をこらして注視し続けてようやく正体をつかんだところで、物語は終わる。

 人間と世界を再構築するこの手腕。これを魔法と呼ばないで何と呼ぼう。

 などと、本書のように遠まわしに言ってみたけれど(なにせここが本書の核なのでしょうがない)、「予審」のありえない質問群——E.S.の星座占いやら、トイレに行きたいという悩みとかを、他者が当たり前のように知っていることやら、普通に笑えておもしろい。隣人が次々に失踪して殺されていく、世界大戦中の東欧の描写や、ユダヤ教神秘主義の雰囲気も興味深い。

 作者はユーゴスラビア出身で、ユダヤ人の父とモンテネグロ系の母を持つ。「東欧の想像力」というシリーズの第一作にふさわしい物語。


recommend:
ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』…「東欧の想像力」シリーズ2作目。
ジャネット・ウィンターソン『さくらんぼの性は』…ばらまかれた物語。
イアン・マキューアン『贖罪』…現実の再構築。



追記(かなりネタばれ気味)

 強制収容所に消えてしまった、ユダヤ人の父親が残した唯一の手紙から、彼が描いた3ヶ月間についての出来事を、詳細に再構築したのが本書である。

 ユダヤ教は、ディアスポラ(民族離散)後、世界に散りぢりになったが、厳格な経典を守ることによって、民族アイデンティティを保持してきた。髪型や服装、祈り、割礼などは、宗教の儀式の意味合いもあるけれど、土地を持たない民族が持つ、共通の心の寄りどころとなっている。

 ユダヤ教は、伝統としては父系の宗教だが、母親がユダヤ人であれば、子供もユダヤ人となる。キシュは、母親がユダヤ人でなかったために、セルビア正教の洗礼を受けたらしい。ユダヤ人=ユダヤ教徒なので、この洗礼が、キシュの命を救ったことになる。

『砂時計』には、いくつかユダヤ教的なモチーフが出てきている。

  • スピノザ:彼は、ユダヤ人だったが追放された人で、なかなか不思議な人生を送っている。代表作は『エティカ』。スピノザ哲学は、「万物に神は遍在する」という一元論で、自由意志は存在しない。汎神論的なので、日本人にはなじみやすいかも。当時の西洋では、当然のことならがどアウトでしたが。
  • 豚肉:イスラムと同様に、ユダヤ教でも豚を食べることは禁じられている。E.S.が豚肉を買い込むシーンは、タブーと迫害の間で揺れるユダヤ人の当時の立場の現れかなと。
  • 迫害:長い西洋史の中で迫害されてきたユダヤ人。クライマックスはやはりナチスだろう。親戚からもうとまれた父親の姿は、泣ける。


 『砂時計』は、父親へのレクイエムになっている。計算してみると、キシュが10歳にならないうちに父親は消えているんですよね。たった一通の手紙から、あそこまで世界を広げたキシュの想像力には拍手を送りたいが、そうせざるをえなかった心のうちについては考えるものがある。