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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『夷狄を待ちながら』J.M.クッツェー

アフリカ文学 ☆☆☆☆

[蛮人は誰か]
J.M.Coetzee WAITING FOR THE BARBARIANS ,1980.

夷狄を待ちながら (集英社文庫)

夷狄を待ちながら (集英社文庫)

せめてこれだけは……言わせて欲しい、もしいつか遠い未来に、われわれがどんな生き方をしたがに関心をもつ者が現われるとしたら、ここ、光の帝国の最果ての辺境の入植地に、その心においてけっして夷狄の蛮人ではなかったひとりの男が存在していたことを。


 南アフリカの作家による、「待ちながら」小説。「夷狄」とは「barbarian」のことで、辞書では「蛮人、未開人」と訳される。

 クッツェー作品の淡々とふるわれる暴力に、『恥辱』をはじめて読んだ時に呆然としたのを覚えている。今回の暴力は拷問だ。打たれ水をかけられ、言葉責め。そして恥辱にさらされる、冴えないけど頑固なおじさんの「私」がいる。

 「夷狄が襲来してくる」と、辺境の町で警戒し続ける人々。しかし物語中、夷狄は実際には襲来してこない。このシチュエーションはブッツァーティ『タタール人の砂漠』に通じるところがあるが、タタール人が孤独の静かな狂気に陥っていくのに対して、この作品は暴力、全体の狂気が現れてくる。

 老人「私」は始終、驚き続けている。気がついたらいつの間にか事件のど真ん中にいて、老人はなぜ自分がこんなことになってしまったのか、わかっていない。そして読む私たちもわからない。きっと人の歴史ってこんなものなのだろう。事件はほんの数年の出来事だが、その視野には何百年という「人間の歴史」がつまっている。

 暴力、性行為、「私」の遺跡趣味。この3つは、なんら関係なさそうで、じつは根本が同じ気がする。人と肉体的に交わる行為、性行為も暴力も、誰か自分以外の人に、自分の影響を刻みつけたいという思いが内包されている。それは「私」の、歴史に名を残したいという願いと似ているように思える。
 たぶん人は、自分が世界にも他人にも、なんの足跡も残さずに去ることが怖い。「私」が最後に年代記を書こうと考えるのも、未来に自分の骸を見つけた誰かに語りかけたいという思いがあるからではないだろうか。

 さて蛮人は誰か?


クッツェーの著作レビュー:


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