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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『恥辱』J.M.クッツェー

[犬と負け犬]
J.M.Coetzee DISGRACE,1999.

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

「なんという屈辱だ」
「あんな大志を抱きながら、こんな末路を迎えるとは」


 南アフリカ生まれ、アフリカーナの作家による「負け犬」小説。簡潔な文章で、暴力、性、自己犠牲を描く作品を作る。

 本書の舞台は南アフリカ。自分の生徒に手を出した大学教授が、その職を追われ、田舎の農園に落ちのびていく。

 プロット的には、どこぞのメロドラマかと思わせるが(帯の紹介も、どうにも誤解をしやすい)、どちらかといえば、職を追われる転落自体はたいした問題ではない。なぜなら、当の教授本人は、女子大生との問題や自分の性欲に、ちっとも悪びれていないから。さあ裁け、と諮問官にけんかを売ったり、バイロンに逃避してみたり、ひねくれて頑固、どうしようもないじいさんだなあとあきれてしまう。

 しかしこの人物は、自分にふりかかる災難から逃げようとはしない。嵐が過ぎるのを待つように、災難にひたり、やり過ごし、そしてその中でなお生きる。教授とその娘ルーシーが恥辱まみれの中で淡々と生きる、その姿がなんとも不思議である。


 彼の著作を読んだのは、『夷狄を待ちながら』以来2作目だが、どうにもこうにも彼の文章は読んでいてしんどい。文章そのものはいたって簡潔で読みやすい部類に入るから、しんどいと感じるのは、描かれているものの方だろう。

 たとえば、暴力に対する屈服。田舎の娘の住む農園に行き着いた主人公は、暴漢に家を襲われ、娘は陵辱される。不思議なのは、こうした暴力にたいして、まるで嵐が過ぎ去るのを待つしかないように、2人(特に娘の方)が耐え忍ぶ。

 生きるために必要だから、強い者に従うという理屈は、自然の摂理としては理解できるけど、どこかでそれを認めることを否定したがる自分がいる。「力」で成り立つ弱肉強食のシステムを、文明人と称する人間は、「人権」やら「公共性」やらの言葉でうまく飾り、不協和を緩和しようとする。

 だから人間世界で、ここまでシンプルなシステムを見せつけられると、ぐらりと揺れて、しんどくなってくる。実際、本作には「アフリカを暴力的に描きすぎている」なんて批判も出たらしい(なんとも的外れな批判だとは思うが)。


 白人男性(教授)と黒人女性(女子大生)、黒人男性(農園の下男)と白人女性(教授の娘)、そのふたつの支配関係が、物語の途中できれいに切り替わる。この関係を、歴史をさかのぼる文化的な陵辱、アパルトヘイトの問題につなげることもできる。正直なところ、黒人と白人の対立がどれほど根が深いものなのか、蚊帳の外の人間である自分には、とうてい理解は追いつかない。

 教授の娘ルーシーが、暴力と陵辱に会いながらも、そこから逃げる道を選ばずに、田舎のルール、力関係のルールに頑固に従おうとするあたりは、歴史への配慮なのかなんなのか、理解不能の心理だった。

 全体的に、「犬」感のただよう小説(日本語がおかしいが、そうとしか言いようがない)。負け犬の教授が、やがて犬の世話をするようになる。

「犬のように」
「ええ、犬のように」

 なんとも不思議な親子の会話があるし、最後のシーンは、もはやどちらが犬なのかわからなくなってくる。

 救いもなく、最後まで下りっぱなしの話だが、それでも読後感はそれほど悪くない。主人公は罰せられるのなら、どこかで救いがあるはずだという読者心理をきれいに裏切っておきながら、それでもなお淡々とこのおじさんは生きていくのだろうという予感がある。

 面白いと思うのは、こうした恥辱を受けた場合、死を選択することも往々にしてあるだろうと思うのに、この作品ではちらりとも自殺の影が見えないところである。恥辱にまみれたら、死を選ぶのか、それでもなお恥をさらしながら生きるのが人間なのか。後者の、あるひとつの答えを見せてくれる話。


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