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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ

[物語の迷宮]
Umberto Eco Il Nome della Rosa,1980.

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉


薔薇の名前〈下〉

薔薇の名前〈下〉

 一場の夢は、一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない。


 記号論の大家、ウンベルト・エーコによる、スケールのやたらとでかい長編物語。

 舞台は中世、修道院。シャーロック・ホームズとワトソンそのものの関係の師弟修道士が、文書館をめぐる殺人事件に挑む。大枠はこんなところだが、細部の書き込みが多様ですさまじい。おそらく3人ぐらいの学者がいなければ、こんな本は書けないだろうに。

 じつにジャンル分けがしにくい小説だ。本書はエンターテイメントでもあり、学術的でもあり、ミステリーと記号論と歴史と宗教学に関する書物でもある。本の迷宮をめぐる物語は、その本自体もまた迷宮のようで、人によって、見方によって、さまざまな読み方ができるだろう。


 個人的に、おもしろいと思ったのは、この本の構成。遠い昔に書かれた書物を、現代の著者が見つけて、訳出していくという作りになっている。語り継がれていく物語、失われていく物語、これらがめぐりめぐって、今この手元にある。ふだんはうっかり忘れているけれど、多くの伝承や物語に、わたしたちはそうやって出会っている。

 グーテンベルクの印刷革命まで、「著者」という概念は存在しなかった。書物はすべて筆写で、本の制作や流通は、修道院などの限られた場所で行われていた。ある書物を写すたびに、書き間違いや意図的な書き換え、加筆などが行われる。読んでいる人間のメモが端に残る場合もある。

 だから本はそもそも「著者のもの」という認識はなく、むしろ手に渡る過程の間に変化する、可塑的な存在であった。

 本は閉じた世界ではなく、開かれていたといってもいい。広場のように、本は共有物だった。本を読めない人間に対しては、読める者が朗読して聞かせていた。1人で読む時でさえ、本は声に出して読むのが当然だった。黙読、という習慣が生まれたのは、じつは近世になってからである。本は誰もが、ぶつぶつと声に出しながら読んだ。その姿は、魔法使いの呪文に似ている。なぜ魔法を使う時にわざわざ呪文を唱えるのか? という幼いころの素朴な疑問には、じつはこんな歴史的な種明かしがにあうかもしれない。

 グーテンベルク活版印刷が登場してから、署名が主流になっていき、「本は著者のもの」という認識が強くなる。そうして今、本はひとりで静かに読むもの、「閉じた存在」になった。そう考えると、本書は、1冊の「閉じた形式」の近代的な本でありながら、古来の「開かれた形式」の本にもなっている。

 修道士アドソが書いたものの筆写本を、さらに著者が書き写す。さて、それは本当の物語なのか? なんて考えることは、たぶん意味がない。おそらく物語は、こういうものなのかもしれない。


 あと、修道院の昼と夜の顔の違いも興味深かった。修道院は、人間の欲を抑圧するしくみを持っていて、だから抑圧された力は変な方向に歪む。だから、同性愛に走ったり、知識欲にとりつかれたり、殺人をしたりする。もっと素直に生きた方がいいと思うんだけど、それは自分が選択できる恵まれた環境にいるからだろうか。ううむ。


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