ボヘミアの海岸線

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『わたしの日付変更線』ジェフリー・アングルス|言語の境界に立つ

書き終えた行の安全圏から

何もない空白へ飛び立つ改行

−−ジェフリー・アングルス『わたしの日付変更線』「リターンの用法」

 

ジェフリー・アングルスは、英語を母国語として、日本語で詩を書く詩人だ。

ふたつの国、ふたつの言語の境界に立つ詩人の言葉は、いくつもの境界線を指し示し、あちらとこちらを見つめて、境界を飛び越えていく。

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『イタリアの詩人たち』須賀敦子|心に根を張った5人の詩人たち

 おおよそ死ほど、イタリアの芸術で重要な位置を占めるテーマは他にないだろう。この土地において、死は、単なる観念的な生の終点でもなければ、やせ細った性の貧弱などではさらにない。生の歓喜に満ち溢れればあふれるほど、イタリア人は、自分たちの足につけられた重い枷ーー死ーーを深く意識する。彼らにとって、子は生と同様に肥えた土壌であり、肉体を持った現実なのである。

ーー須賀敦子 『イタリアの詩人たち』

 

夏休みに架空のヴェネツィアに立ち寄ってから、イタリアの路地裏を歩き続けて、須賀敦子のイタリアまでやってきた。

イタリアの詩人と須賀敦子は、古く深い関係にある。須賀敦子はイタリア文学の翻訳とエッセイで名高いが、彼女が日本に帰国してはじめて寄稿した文章は、イタリア詩人についての連載、つまり本書だった。

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『須賀敦子のヴェネツィア』大竹昭子|悲しみとなぐさめの島

ヴェネツィアは、なによりもまず私をなぐさめてくれる島だった。

ーー大竹昭子 『須賀敦子ヴェネツィア

 

イルマ・ラクーザ『ラングザマー』アンリ・ドレニエ『ヴェネチア風物誌』と続けてヴェネツィアにまつわる本を読んだので、さらにもう一歩、ヴェネツィアの路地裏に迷うことにした。アンリ・ドレニエのヴェネツィアは喜びと愛に満ちていた。須賀敦子ヴェネツィアは、悲しみと追憶に満ちている。

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『河岸忘日抄』堀江敏幸

遭難の作法

 ふと、彼は思う。自分は、まだ待機していたい。待っていたい。だが、なにを待つのか?——堀江敏幸『河岸忘日抄』


 霧の深い夜には、たいそう派手な失恋をしてなんの知らせもよこさずに遠い異国へふつりと消えた、気狂いの友人を思い出す。失踪した理由をのちに尋ねてみれば、「誰にも知られずに、ひとりで本を読みたかった」。なんだあの阿呆はと思いつつ、似たりよったりのことをしているのはわたしだった。

 知人と記憶を持たぬ土地でもう数か月、呆然とし続けている。この数年ずっと「これは本物だ」と思っていたものを失い、積み上げてきたトランプの塔は崩れ落ち、真っ白な原稿の瓦礫となった。こうなる予感はすでにあったのか、すでに手に入れていた切符を手に、背負えるだけの手荷物を持ってここへ来た。どうして僕はこんなところに。あらゆる面倒な手続きをこなし、万難を排してこの地に臨みながら、いまなおこの問いへの答えが見つからない。

 おそらく世の中には、SOSも発さずに、異国や図書館で難破したくなる時期、あるいはそういう種類の人間がいる。友人やわたし、そして「彼」のように。

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄

河岸忘日抄

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『さりながら』フィリップ・フォレスト

 一茶はすでに世界についてすべてを知っていた。その悪意、その無尽蔵の美しさ。——フィリップ・フォレスト<<『さりながら』

喪失の水盤

 この切実さはなにごとだろう。フォレストの文章を読みすすめるごと、そう思わずにはいられない。

 日本の作家、俳句、写真家、都市についてフランスの小説家が語るという、日本語の読者ならある種の好奇心と恐れを抱くであろう形式をとりながら、フォレストが語るのは異国としての日本ではなく、どこまでも個人的な物語である。

さりながら

さりながら

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日本が読みたくなった

 ふと、日本が読みたくなった。ひぐらしが鳴きはじめる盆の季節には、どうにも日本が読みたくなる(日本文学ではなく、あくまで日本が)。本棚をあさるのは面倒くさかったので、あちこちに散乱している本の山どもの中から寝ぼけまなこでセレクト。


東京日記 他六篇 (岩波文庫)

東京日記 他六篇 (岩波文庫)


 盆には幽界の扉が開く。といえば、文句なしに百間翁だろう。東京生まれの東京育ちのせいか、「東京」と名のつく本には弱い。

遠野物語 (光文社文庫)

遠野物語 (光文社文庫)


 森山大道の作品の中では、東北を写したものが好きだ。当時の森山氏は鬼気迫る精神だったらしいが、それがよく出ている。『ハワイ』もいいが、もっとゆるい。基本的に人は不幸である方がいいものを作ると思う。

エレクトラ―中上健次の生涯 (文春文庫)

エレクトラ―中上健次の生涯 (文春文庫)


 中上健次の命日に、Twitter上でおすすめされた。折しも文庫化されていたので、ちょうどよかった。評伝を読むのはけっこう久しぶりだが、最初の数ページから引き込まれてしょうがない。

日本伝説集 (ちくま学芸文庫)

日本伝説集 (ちくま学芸文庫)


 南米では不可思議なことがよく起こるが、日本だって負けてはいない。巨木、犬神、人柱、賽の河原など、日本の民話を体系だててまとめた1冊。個人的には、「昔ふくろうは染物屋だった」というのがよい。

沼地のある森を抜けて (新潮文庫)

沼地のある森を抜けて (新潮文庫)


 文章が発酵している小説。代々伝わるぬか床を回すと、生が生じる。日本の発酵文化はもっと文学として世界に広まっていいと思うのだけどなあ。
現代語訳 雨月物語・春雨物語 (河出文庫)

現代語訳 雨月物語・春雨物語 (河出文庫)


 後輩のギャルがものすごく『雨月物語』が好きで、その熱気の元を知りたくて読んだ記憶。高校生のころは、その名前の美しさに惹かれた気がする。湿気を感じる怪談がどれもよい。
絶滅寸前季語辞典 (ちくま文庫)

絶滅寸前季語辞典 (ちくま文庫)


 絶滅寸前というタイトルどおり、ほぼ知らない「季語」の世界。日本語の豊潤さを垣間見る。「虫干」や「懐手」とかは分かるけど、他はさっぱり。地味に続編も出ている(続編も文庫化してくれないかな)。なんとなく『蟲師』の世界を思わせる。
高野聖・眉かくしの霊 (岩波文庫)

高野聖・眉かくしの霊 (岩波文庫)


 ひたひた迫る、日本の幻想。最近、山手線で紹介されていてちょっとびっくりした。面妖艶美な緑の世界がぐるりと囲んで収縮してくるよう。蛭が死ぬほど降ってくる森の描写を覚えている。がくぶる。
色を奏でる (ちくま文庫)

色を奏でる (ちくま文庫)


 日本伝統の染を営む女性の手記。自然の葉や花から「色をいただく」という発想が素敵だ。自然を見る目が、都会に住む者と明らかに違う。この視点から世界をのぞいてみたい。

 水木作品の中では一番好き。この作品には絶妙な「間」がある。それがいい。たぬきと三平の妙な友情にぐっとくる。「お前は動物にしておくには惜しいたぬきだ」「僕もそう思う」は名場面。

『短篇コレクションI』池澤夏樹編

[世界という名のタペストリ]
Natsuki Ikezawa edited Colleted Stories I,2010.


 世界中の文学から短編を集めたコレクション第1弾。本書は、主にアメリカ大陸、アジア、アフリカの作品を収める。
 「目次そのものが自分の作品であるような気がする」、池澤夏樹は帯にこう書いている。ずいぶん挑戦的だなあと思いながら目次に目をとおし、目次の最初2編のタイトルでこの本を購入しようと決めた。最初にコルタサル「南部高速道路」、次にパス「波との生活」。「南部高速道路」は、海外文学を好きになってもらえたらという願いをこめて、海外文学読み始めの人に勧める短編だ。パス「波との生活」も、南米短編の名作として必ず紹介される。

 「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」は、試みはすごいと思うけれど、たまにひどく外れる(なぜサガンを収録したのか、いまだにちょっと分からない)。だけど、本書は買ってみて損はなかろうという気にさせられた。やはり、なっちゃん先生は作家より編集者向きかもしれない。

 以下、各編の感想。気に入ったものには*。いまいちのものには▲。


コルタサル「南部高速道路」
 アルゼンチン。不条理きわまる大渋滞に巻き込まれた人々。久しぶりに読んだけれど、やっぱり好きだ! 半年ぐらい渋滞しているとか、ちょっと考えたらありえないシチュエーションなのに読ませる読ませる。一寸刻みでしか動かない大渋滞にじりじりさせられるからこそ、最後の加速はうなる。 ⇒感想

パス「波との生活」
 メキシコ。波を恋人にしたら大変になった男の話。波は気まぐれで男はおぼれ(直喩的でも暗喩的でもある)、波の愛撫に我を忘れる。けっこう恋人らしいこともやっているのだけれど、波はやっぱり波で、貯水タンクに入れられたり子供に飲まれたりもする。「女は波に似ている」と、これだけ美しく書いた短編はあまりない。

マラマッド「白痴が先」   
 アメリカ。病気持ちの男が、白痴の子供を遠い親せきの家に送ろうと奔走する数時間。凍えるような寒い夜、金繰りのために徘徊する老人の姿を見て「これはアメリカじゃなくてロシアじゃないか?」と思ったら、作者はやっぱりロシア系移民だった。

ルルフォ「タルパ」
 メキシコ。病持ちの男を過酷な旅に連れ出して死なせる妻と義弟。病持ちの男が黄色いうみを出してどろどろ腐っていく姿もすごいが、男を殺すために密約を交わした妻と義弟(しかも不倫中)の心のどろどろぶりもすごい。なのに、メキシコの大地はどこまでも乾いている。これぞルルフォ! ⇒感想

張愛玲「色、戒」
 中国。時は世界大戦中、女スパイが狙うは金持ちの男の命。妻の友人のふりをして男をたぶらかし、その命を狙う。中国映画みたいなベタベタの展開だが、けっこう好きだったかも(実際映画になったらしい)。お互いに愛がある、そのことを唐突に知る衝撃。たぶんそれさえあれば、2人が一緒になろうがなるまいが、後はどうでもいいことなのだ。お互いが「相手は自分を愛している」と思うあたりが憎い。

イドリース「肉の家」
 エジプト。イスラム禁欲主義とタブーの話はどうにも苦手だ。盲目の男が婿入りした先は、3人の娘と未亡人が住む沈黙の家。彼らは飢えていた。だから、誰もが沈黙しながらタブーに手を伸ばす。これは性に合わない……。

ディック「小さな黒い箱」  
 アメリカ。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の原型となったという1作。共感ボックスを触ると、救い主マーサーの痛みを皆で分かち合える。「共感」と「共有」の意味をさらりと問うてくる。一緒の流れを共有する、という点では、けっこうTwitterとかとも似ているかなあと、ちょっと思った。

アチェベ「呪い卵」
 ナイジェリア。キティクパ=天然痘の神が暴れた末に、かつて賑わっていた市場は蠅の王国となった。「天然痘の神」「夜の仮面たち」「呪いの卵」など、アフリカの世界観にひたれる。「彼らは確かに実在するのだ」。

金達寿「朴達の裁判
 朝鮮。統制時代において、最もインテリが集まるのは監獄だ。もともと無学だったのに、あまりに監獄送りされたためすっかり教養を身に付けた朴達のユーモラスな反抗。「えっへへ……」と卑屈な笑いを浮かべながら、その実何度も政府に反抗する朴達は、庶民派の英雄なのかもしれない。最後のカタルシスはなかなか。それにしても、目つきの怖い陪審員が数十人って怖い。

バース「夜の海の旅」
 アメリカ。夜の海をひたすら泳ぐ兄弟たちの独白。わりとすぐに正体が分かってしまうので、なんともいえない微妙な気持ちになった。

バーセルミ「ジョーカー最大の勝利」
 アメリカ。『バットマン』を冷静に見たらトンデモ話だよねと、文学的につっこんだらこうなった。「君は何百マイルも離れた場所にいると思っていた!」「そうなんだけど、なんかバットマンが呼んでいる気がしたから、ジェットで来たよ」。いわゆるアメリカ人の内輪向けな笑い。

モリスン「レシタティフ──叙唱」
 アメリカ。白い女と黒い女がそこにいて、幼馴染として孤児院で過ごす。最後まで読んで、どっちが白人か分からないことに気がついた。肌の色による差別、のし上がるという感覚、羨望と被害者意識……いかにもどこまでもアメリカ的。

ブローティガン「サン・フランシスコYMCA讃歌」
 アメリカ。詩が好きな男が、鉛管類を外して詩に置き換えたらとんでもないことになった。お気に入りは詩による「焚書主義者め!」という罵倒文句(どこかで使いたいが、どこで使うんだろう)。シェイクスピアの詩はただもうニコニコしている。脱力しながら、ため息つくように笑いが漏れた。 ⇒感想
カナファーニー「ラムレの証言」
 パレスチナ。炎天下の街中で、イスラエル人がパレスチナ人を犬のように殺す。家族を殺された男が考え出した結論。たった数ページなのに激烈に重い。こんな場面が、いったいこれまでにいくつ繰り返されたのだろう。最後の目配せが血のように赤く、砂のように苦い鮮烈な印象を残す。

マクラウド「冬の犬」
 カナダ。ある冬の極北の地で、助かった命と助からなかった命があった。これは好きな短編だ。血は熱く、息は白く、流氷は何もかもを凍らせる。冬の海に落ちると最初は暖かいと感じるらしい。夏なのに、思わずコートをにぎりしめたくなった。⇒感想
カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」
 アメリカ。本当に数年ぶりにカーヴァ―を読んだ。空気の読めないパン屋のキャラが際立っている話。子供が交通事故に会った時の親の気持ちは迫真にせまる。なのに、パン屋はどうにも非常識で、へんなかみ合わせの悪さを感じる。どんなにへこんでもうまいものを食べよう。この言葉には同意。それはきっと慰めになる。

アトウッド「ダンシング・ガールズ」
 カナダ。「アメリカ人はカナダのことに興味がない」というが、それは本当なのだろうか……。いろいろな国籍の人が集まる人種のるつぼアメリカで、今も昔も起こっている文化のつばぜり合い。都市デザインを専攻するカナダ人女子学生の願いは、平和ボケしているけれどなんだか素敵だ。

高行健「母」
 中国。ダメな息子の独白。「お母さん、話してください!」とか言われても、なんかなあ……と思ってしまう。母については、人類誰もが物語を持っている分、難しいのかもしれない。

アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」
 シリア。レバノン生まれの男と女がパリで出会う。男の奴隷であることが良い女の条件という、古い慣習を「つまらない」と思いつつ従順な女の理想を捨てきれない男と、フランス的自由思想に浸りきった女には、どうにも埋めがたい溝がある。だからこそ人は恋をして、だからこそ人は傷つくのだろうが。ちなみにこの話にはおせっかいな幽霊が出てくる。彼女の語る「妻にすべき女」の表現は、もはや喜劇の域なので、わりと好き。

目取真俊「面影と連れて」
 沖縄。魂を見る発育遅れの女性が、ガジュマルの木の下で語りかけてくる。やはり日本語で書かれているせいか、すっと水を飲むように染みいった物語だった。「沖縄のおばあは素敵」だという刷り込みが、私の人生のどこかであったらしい。魂を見ることができる人は、いまこの日本にはどれくらいいるのだろうか?


河出書房新社 『池澤夏樹=世界文学全集』


recommend:
『ラテンアメリカ五人集』…リョサ、パチェーコ、アストゥリアス、パス、オカンボの作品が一度に読める。
『考える人2007年春号 短篇小説を読もう』…「わたしの好きな短篇3作」コーナーで本を探す。

『井伏鱒二全詩集』井伏鱒二

[サヨナラダケガ]

井伏鱒二全詩集 (岩波文庫)

井伏鱒二全詩集 (岩波文庫)

  • 作者:井伏 鱒二
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2004/07/16
  • メディア: 文庫


 井伏鱒二の『厄除け詩集』は、学生にとって災厄である。井伏の言葉は、ぐるぐるする心を鮮やかに刺してくる。太宰、ドストエフスキーあたりに一度でもはまったことがある人なら、きっとうなずくだろうと思う。
 その太宰も、井伏の言葉に影響を受けた。「さよならだけが人生だ」という井伏の名訳を太宰が引用したというのは有名な話である。実際、この言葉は太宰を始め、多くの作家に影響を与えてきた。寺山修二は、この詩に対して「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」と返歌を書いた。それだけ、この名句の放つ印象は強かったのだろう。


 さて、本書は上記で紹介した『厄除け詩集』の他に、井伏が日本語で書いた生涯の詩をすべて納めている。上田敏や堀口大學と同じように、井伏鱒二は外国の詩をただ訳出するだけでなく、完全に「日本語の詩」として置き換えた。今ではとても考えられない名人芸である。

勧君金屈巵  コノサカズキを受ケテクレ  
満酌不須辞  ドウゾナミナミツガセテオクレ
花発多風雨  ハナニアラシノタトヘモアルゾ  
人生足別離  「サヨナラ」ダケガ人生ダ    

 晩唐の詩人 于武陵(うぶりょう)の五言絶句「勧酒」。書き下し文は「君に勧む金屈巵(きんくつし)/満酌辞するを須(もち)いず/花発いて風雨多し/人生別離足る」となる。漢文の授業でこの詩が出てきても、間違っても「サヨナラダケガ」なんて訳は出てこないなあと思う。
 「春眠暁を覚えず」で有名な孟浩然の「春暁」は次のようになる。「トリノナクネデ目ガサメマシタ」あたりが最高によい。このリズムは酔える。

春眠不覚暁  ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
処処聞啼鳥  トリノナクネデ目ガサメマシタ
夜来風雨声  ヨルノアラシニ雨マジリ
花落知多少  散ツタ木ノ花イカホドバカリ


 井伏の日本語詩は、どこか不思議でひょうきんな印象がある。

「なだれ」
峯の雪が裂け
雪がなだれる
そのなだれに
熊が乗つてゐる
あぐらをかき
安閑と
莨をすふやうな恰好で
そこに一ぴき熊がゐる

 想像してみると非常に楽しい。東欧アニメーション映画にも似た、ユーモラスかつシュールな雰囲気がある。本書の中でも群を抜いて好きな一編だ。


 最初の寺山修二の歌に戻る。なぜ寺山は「さよならだけが人生なら 人生なんていりません」と言ったのだろう? 思うに、「サヨナラダケガ人生だ」という言葉にネガティブなイメージを読みとったからではないだろうか。しかし、井伏の詩集には、哀愁こそあるにしろ人生を嘆く雰囲気はあまりない。「勧酒」は、「人生は別ればかり。だからこそ今この酒を楽しもう」という歌である。寺山は、太宰のイメージにひきずられたのではないかと思う。
 「この世を楽しめ」と歌ったハイヤームの『ルバイヤート』と一緒に読みたい1冊。しかし私は酒飲みの詩人が好きだな。

recommend:オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』…あの世の約束に手を出すな。
上田敏『海潮音』…西欧の詩を日本語で楽しむ。
太宰治「グッド・バイ」…井伏の弟子が書く別離。

『海潮音』上田敏

[謡う日本語]

海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫)

海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1952/12/02
  • メディア: 文庫


 上田敏が1905年に出版した訳詩集。明治時代の訳者は、日本の詩歌を踏襲した訳文を書いた。海外の作品でありながら、れっきとした日本の作品でもある。今ではできない芸当のひとつだと思う。

 本書は57編、27人の詩人の作品を収める。内訳は、イタリア3人、イギリス4人、ドイツ7人、プロヴァンス1人、フランスは14人。フランスの象徴詩とダンヌンチオが多い。「落葉」など、教科書に載っていたなつかしい作品もある。

 さて、気に入っている詩を一篇紹介しよう。ロバート・ブラウニング、イギリスの詩人による詩。

「春の朝」 ロバアト・ブラウニング

時は春、
日は朝、
朝は七時、
片岡に梅雨みちて
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這い、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

 春眠暁を覚えずのような、春の平和な雰囲気がすてきだ。春は、好き嫌いが分かれる季節かなと思う。T.S.エリオットみたいに、春好きじゃない詩人もいるのは分かるけど、ちょっとしょぼくれる。
 最後の一文、原文は「All's right with the world」だが、これを「すべて世は事も無し」と訳せるところがすごい。この時代の知識人のセンスは本当に格好よいと、今でも思う。


recommend:
ボードレール『巴里の憂鬱』…三好達治訳。