ボヘミアの海岸線

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『アルマ』J.M.G. ル・クレジオ|絶滅した鳥、失われゆく記憶

どこにだって行こう、なんでも見たい、たとえ見るべきものだとたいして残っておらず、あたかも水没した墓碑に書かれたような地図上のこうした名前、日一日と消えていく名前、時の果てへと逃れていく名前のほか何もないとしても。

−−J.M.G.ル・クレジオ『アルマ』

 

今はもう消滅してしまった星の残光みたいな小説だ。

失われつつある、あるいはもう永久に失われてしまった命や文化について、切実な声で語り続ける作家が、インド洋の貴婦人と呼ばれる美しい島、父親の故郷、モーリシャス島について語る。

ぼくは帰ってきた。これは奇妙な感情だ、モーリシャスにはこれまで一度も来たことがないのだから。見入らぬ国にこうした痛切な印象を持つのはどうしてか。

作家の似姿であるフランス人研究者が、父親の形見であるドードーの石を手に、モーリシャス島を訪れる。旅の名目は、専門分野であるドードー研究のためだが、いちばんの目的は「父祖の地」を訪れることだ。

父や先祖と関わりがあった人々、一族の生き残りであるドードーと呼ばれる男を探しながら、かつて父や先祖が見た景色の痕跡を求めて、男はモーリシャスの土地を歩きまわる。

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『ラガ 見えない大陸への接近』J.M.G.ル・クレジオ|失われた島々の断片

ラガでは、人はつねに創造の時の近くにいる。

…堕罪や現在を、メラネシア人が本当は気にしていないということは、よく感じられる。かれらは、より幻想的なものとより現実主義的なものの、同時に両方でありうるのだ。

−−ル・クレジオ『ラガ 見えない大陸への接近』

 

ル・クレジオは、オセアニアを「見えない大陸」と呼ぶ。

「ラガ」は、南太平洋メラネシアに点在する島々のひとつ、ペンテコステ島の現地名だ。

ル・クレジオは、植民地支配以前のラガ、植民地時代のラガ、植民地以降のラガについて、ぐるぐると時系列を混ぜて、神話や伝承や歴史の断片、自身の滞在記録の断片を積み上げていく。

点在する島々をつなぎあわせていけば、見えない大陸が幻視されるように、著者は記憶と記録の断片を次から次へと語ることで、ラガへの接近を試みる。

 

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『ヴェネチア風物誌』アンリ・ドレニエ|妖術と魔術と幻覚の土地

まったく、ここは奇異なる美しさの漂う不思議な土地ではないか? その名を耳にしただけで、心には逸楽と憂愁の思いが湧き起こる。口にしたまえ、<ヴェネチア>と、そうすれば、月夜の静寂さのなかで砕け散るガラスのようなものと音を聞く思いがしよう……<ヴェネチア>と。それはまた陽の光を受けて引き裂ける絹の織物の響きさながら……<ヴェネチア>と。そして色という色は入り混じって、変わりやすい透明な一色となる。この地こそは、まさに妖術と魔術と幻覚の土地ではないか?

ーーアンリ・ドレニエ『ヴェネチア風物誌』

 

ヴェネツィアを訪れたことは2回ある。いずれも夏で、光と人々の喧騒に満ちたヴェネツィアが、私の記憶にあるヴェネツィアだ。

だが本当は、冬のヴェネツィア、100年前のヴェネツィア、詩人たちが描くヴェネツィアを訪れてみたい。

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『服従』ミシェル・ウエルベック|改宗します、それなりの待遇であれば

ぼくは人間に興味を持っておらず、むしろそれを嫌っていて、人間に兄弟愛を抱いたことはなく…厭な気分になるだけだった。しかしながら、不愉快ではあったが、ぼくは、その人類なるものがぼくに似通っていて、まさにそれが故にぼくは逃げ出したい気持ちになることを認めざるを得なかった。

ーーミシェル・ウエルベック服従

 

学生の頃からフランス語に苦手意識がある(リエゾンと発音のややこしさがおそろしい)のだが、長く続く友人はふしぎとフランス語の話者が多く、彼らのおかげでフランス語やフランス文化にふれあう機会が増えた。

彼らフランス人間たちとフランス文学について話している折、「フランスが誇る非モテの王」*1ことウエルベックの話が出たので、酔った勢いで、私以外の全員がフランス語を話すメンバーでウエルベック読書会をすることにした。

*1:パリに住む友人とそのパートナーによる表現で、やたら笑ったので使わせてもらった

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『ある島の可能性』ミシェル・ウエルベック|望みが叶わない人生の苦痛とその解放

僕がセックスで幸せを感じるためには、少なくとも――愛がないのであれば――同情か、尊敬か、相互理解が必要だった。人間性、そうなのだ、僕はそれを諦めてはいなかった。

――ミシェル・ウエルベックある島の可能性

 

幸せはどこまでも主観的なものであり、他者から見て「成功している」「幸せである」ように見える人が、本人もそう感じているとは限らない。

仕事での名声、高額の報酬、著名人との交友関係、自由な性愛、結婚、これら世間が羨む成功を手に入れてもなお孤独で不幸だと苦しむ人がいたら、周囲はきっと「これ以上なにを欲しがる必要があるのか」と言うだろう。しかし本人にとって最も望む願いが叶わないなら、それは不幸であり、人生は苦痛となる。

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『夜』エリ・ヴィーゼル|日常の底が抜ける時

「黄色い星ですって。なんですか、そんなもの。それで死んだりはしませんよ……」

ーーエリ・ヴィーゼル『夜』

 

歴史を振り返るにつけ、生活が根こそぎ変わってしまう激震は、巨大な隕石が落ちるようにまったく突然にやってくるものと、水温が上がるようにじわじわと小さな変化が積み重なるものがある。

どちらも恐ろしいが、前者は恐怖が初期にその姿を現すのにたいして、後者は後から振り返ってはじめてそれが恐怖だったと気づく点において、より恐ろしい。

強烈な変化は反発や反応が起きやすいが、ゆるりとした変化は「これぐらいたいしたことない」「生活に直結するわけではない」と見逃し続けて、ある時ふと底が抜けて、自分が穴に落ちていることに気づく。 

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『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー 』シモーヌ・ヴェイユ|不幸の底へ下り、愛へ飛躍する

わたしたちが生きており、その微小な部分をなしているこの宇宙は、神の<愛>によって神と神とのあいだに置かれたこの距離である。わたしたちはこの距離における一点である。時間・空間、物質を支配しているメカニズムは、この距離である。わたしたちが悪と名づけるものはすべて、このメカニズムにほかならない。神は、神の恩寵がひとりの人間の中心そのものに浸透し、自然法則を害することなく、その人が水の上を歩けるようにした。だが神から目を背けるならば、その人はただ重力にゆだねられるがままになっている。

――シモーヌ・ヴェイユ「神への愛と不幸」

 

本書は、ヴェイユの主要な論考7本をおさめたアンソロジーだ。「ヴェイユ入門書としてちょうどいい」と勧められて手に取った。論考それぞれが主題も論調も違っていて、最初はなかなかつかみどころがないように思える。だが読み進めるうちに、その底には、言葉を尽くして語らざるをえない強い引力、切羽詰まった激情のようなものが沈んでいると気づいてくる。

 ヴェイユの文章には、「美」「善」「不幸」「悪」「キリスト」「力」「犠牲」といった言葉がくりかえし表れる。善と悪、美と不幸、力と犠牲、といった二項対立になりがちなこれらの言葉を、ヴェイユは隣り合わせに並べていく。その並べ方が独特だ。

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

 

不幸を距離としてじっと見つめるのでなければ、不幸の存在を受け入れることはできない。

神は、愛によって、愛に向けて創造した。神は愛そのものと愛する手段以外のものを創造しなかった。……神と神とのあいだのこの無限の距離であり、至高の引き裂かれであり、他の何ものも近づきえない痛みであり、愛の驚異であるもの、それがキリストの磔刑である。

――「神への愛と不幸」

不幸な人はいかに不幸か、どのように不幸かを語った直後に、なんの前置きもなくするりと神の愛に跳躍する。じつにあっさりとあたりまえのように飛ぶので、その軽さにびっくりしてしまう。

ヴェイユが語る、神の愛と犠牲の思想そのものにはなじみがある。愛する御子をつかわして人間の罪すべてを贖罪させるほど神は人間を愛しているのだと、キリストが死の直前に「神よ、なぜあなたは私を見捨てたのか」と嘆く言葉に神が沈黙したことも含めて愛なのだと、シスターからなんども聞かされてきた。「愛」については、「隣人を愛せよ」「弱く苦しんでいる者に親切にせよ」と、人間同士の愛について語られることが多かった。

一方、ヴェイユが語る「愛」は、人間同士のあたたかい交流ではなく、孤独で不幸のどん底であらわれる試練のようだ。神を見上げざるをえないまでに追いつめられた不幸な人(不幸なキリスト)が、悲しいほど遠くにいる神にまなざしを向けることが愛だ、という展開は、「愛」という言葉から想像する安心やぬくもりからはほど遠い。ヴェイユの提案は過酷、ほんとうに過酷である。

 

「神への愛と不幸」には、「人間が不幸なのは、神が人間に愛されたいから」というくだりがある。

このように、不幸は、神がわたしたちから愛されることを欲しているというもっとも確かな徴である。それは神の優しさのもっとも貴重な証である。それは、父権的な懲罰と言ったものとはまったく別のものである。若い婚約者が自分たちの愛の深さを確かめる優しい喧嘩に例えるのが、いっそうふさわしいであろう。

 ギリシアの神々や北欧の神々ならともかく、全能の神が人間の愛欲しさに不幸(人間性のすべてをはく奪され、身体の痛みもある、とてつもない不幸)を与えるのだろうか。この神は、私の周りで見るキリスト教の神々とはだいぶ違っている。

 

こんなふうに、ヴェイユの言葉と思想の連なりに私はいちいち驚いては立ちどまる。だが、繰り返される言葉には「暴力の犠牲になった人、不幸な人が、どう救われるか」といった、弱く不幸な人と向き合おうとする気持ちがあるように思う。

 ヴェイユの言葉は「よりよく生きて、現実を改善して、不幸から離れよう」といった、階段を一段ずつのぼって底から離れていくタイプの言葉ではない。

ヴェイユはむしろ階段をどんどん降りて、奈落の底へと近づいていく。心と体がずたずたになった不幸の底に向かい、不幸な人をじっと見つめ、相手の立場に身を置いて、そこから一気に上を見上げて愛と善に、階段をのぼらずそのまま飛躍する。

よりよい世界や希望といった光(多くの宗教はこちらを提示する)ではなく、不幸や苦しみといった、人が目をそむけたがる暗闇に向けてじっと目をこらし、目を離さずに受けとめようとする視線は、鬼気迫るものがある。

 

いったいなぜ彼女はこの思想にたどりついたのだろう。ヴェイユは、不幸な人が不幸のまま死なないようにしたかったのだろうか。

不幸で疲れ切ってずたずたになった人は、階段をのぼって状況を改善する力も自由も残っていない。いまいる底から神の愛に一直線につながる道筋は、ひとつの救いではある。

 だがその道に至るには、不幸を見つめて不幸とともにあろうとしなくてはならない。とても難しい。ヴェイユ自身も「自殺するより難しい」と書いている。

誰かに耳を傾けるとは、その人が話しているあいだ、その人の立場に身を置くということである。その魂が不幸でずたずたにされている、あるいは差し迫った身の危険がある人の立場に身を置くとは、自分自身の魂を無にすることである。それは、生きるのが楽しい子どもにとって自殺する以上に難しいことである。それゆえ、不幸な人に耳が傾けられることはない。

でもきっと彼女は、そうあろうとしたのだろう。皆が目をそむけるものを目をそらさず見つめよう、誠実であろうとする言葉は、どんどん純化して、清濁混沌の現世からは離れていって、最後の2編はまるで骨でできた結晶みたいだった。

 

Content

  • 『グリム童話』における六羽の白鳥の物語
  • 美と善
  • 工場生活の経験
  • 『イーリアス』、あるいは力の詩篇
  • 奴隷的でない労働の第一条件
  • 神への愛と不幸
  • 人格と聖なるもの

 

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ヴェイユが「『イーリアス』、あるいは力の詩篇」で、もっとも優れた詩と誉めたたえた。力によって死んだ英雄の帰還を待って風呂の準備をする妻たちの姿が、不幸であり美しいと書いている。ヴェイユは、不幸と美についても同じ目線でつなげている。

 

不幸を与えてくる神と対話する善人ヨブ。ヨブについて、ヴェイユは「不幸の例」として挙げている。ヨブの嘆きと神との対話はほんとうにすごい。

 

フラナリー・オコナーに出てくる「恩寵」とヴェイユの「恩寵」、恩寵つながりで読んだ。ふたりの恩寵はどちらも犠牲と不幸が関わるが、オコナーはみずから暴力をもちいるのにたいして、ヴェイユは暴力をふるうことを拒否して受ける側の立場で考えるので、だいぶ違う気がする。

 

 

 

 

 

『黒人小屋通り』ジョゼフ・ゾベル|過酷で美しい少年時代

 大人の黒人たちが裸になって立派な馬の隣に立つ姿が湖の水に映っているのほど、素朴で美しいものを見たことがなかった。

――ジョゼフ・ゾベル『黒人小屋通り』

 

今年の夏は、例年どおり八月の光に誘われて、アメリカ南部の小説をぐるぐるとめぐっていた。南部から立ち昇る蒸気にすっかりのぼせて、さらに南下してカリブン(カリブ海文学)へと移動してきた。

アメリカ南部とカリブ海は、ともに黒人がアフリカから奴隷として連れてこられた歴史を持つ。どちらも同じ大陸から連れてこられた人の末裔たちだが、土地と人によって、こうも語る物語が違うのか、と驚いた。

黒人小屋通り

黒人小屋通り

 

 

 黒人小屋通りとは、カリブ海マルティニーク島に存在した黒人街だ。

かつてコロンブスが「世界で最も美しい場所」と称賛し、現在は「カリブ海の花」としてリゾート地になっているマルティニーク島の斜面には、一面のサトウキビ畑があった。丘の頂上には白人農場主(ベケ)の屋敷、その下には混血(ムラート)が住む農園監督者の家、その下に黒人小屋通りがあり、さらに下は一面のサトウキビ畑が続いた。

この住居の位置は、そのままマルティニーク社会における階級を示していた。肌の色によって階級が決まっていて、黒人は最下層に位置づけられていた。

 

奴隷制度が終わってまもない1930年代、この黒人小屋通りから、ひとりの黒人少年が声を上げた。その声は、黒人たちが苦しむ貧富と差別の過酷さを語り、そして黒人たちが生きる世界の美しさを語った。

 

黒人小屋通りは、トタン屋根のバラックでできた狭い住宅で、語り手の少年ジョゼは祖母とともに黒人小屋通りで育った。黒人小屋通りの子どもたちはそろってわんぱくで、いたずらし放題、盗み食いし放題で、とにかく生命力がすごい。

着ているものはぼろ布だけでほぼ裸、食事だってけっして豪華とは言えないのだが、それでも皆がおいしそうに食べるものだから、こちらもつい食欲を刺激されてしまう(干しダラの料理はどれもおいしそうだ)。

とくにサトウキビ収穫時期のシーンは、祝祭めいた雰囲気に満ちている。背後にはもちろん白人農場主による搾取問題があるのだが、それでも語り手はこの瞬間を祝福する。 

そして刈り入れになった。

僕ら子供たちは一日じゅう、サトウキビの切れ端を吸うことができた。僕らは畑にサトウキビの切れ端を探しに行った。親たちも切れ端を持ってきてくれたものだ。口から汁がこぼれるほど吸って、服をべたべたにして、仲間たちのむき出しになったお腹はてかてかになるのだった。 

差別や労働についてなにも知らない子供だからのんきなのかといえば、そうでもない。ジョゼはきちんと黒人たちが苦しむ貧困や差別を見ている。だが、彼にとって、苦しい生活と構造を知ることと、黒人の美しさを賛美することは両立する。

 すでにそのころ、僕は直感から、悪魔と貧乏と死というのは疫病神みたいなもので、特に黒人にとりつくのだと知っていた。無理だとは知りながらも、僕は黒人たちが悪魔やベケに仕返しするために、何ができるのだろうかと考えるのだった。 

大人の黒人たちが裸になって立派な馬の隣に立つ姿が湖の水に映っているのほど、素朴で美しいものを見たことがなかった。

 

本書は「過酷だが美しい」「美しいが過酷だ」「貧しいが幸福に生きている」「富があるが苦しんでいる」といった複雑な声に満ちている。この語りを支えるのは、語り手の素直さと観察眼、そして彼の多様な立ち位置だ。

ジョゼは教育を受け、黒人小屋通りからただひとりバカロレア(フランスにおける大学入学資格を得る教育機関)に合格して、黒人少年としては例外的に「黒人小屋通り」以外の世界を目撃した。

ジョゼ少年は、自分が住んでいた世界以外を知ったうえで、黒人小屋通りとそこに住む人たちに親愛の情を向ける。彩り豊かな語りには、「誰も語らなかった黒人小屋通りについて自分が語ろう」とする意思がうかがえる。

 

著者はジョゼ少年と同じように高等教育を受けた後にフランスにわたり、第二次世界大戦中に本書を書いた。自分の土地を離れ、宗主国の言語で語ることについて、著者がどのような心境だったのかはわからない。だが、著者のように、フランス語で書くマルティニーク人がいなければ、世界はマルティニークに住む黒人たちの声を知る機会が遅れただろう。一方で、自分たちの言葉で語らずに外国語を使う文学者たち(総じて彼らはエリートだ)への批判があるのもわかる。

この白黒つけられない微妙さもまた、マルティニーク文学らしい。

 

Recommend:マルティニーク小説

アメリカ南部の黒人少女小説。『黒人小屋通り』が祝祭的な黒人社会だったのにたいして、『地下鉄道』は地獄としか言いようのない奴隷社会から少女が逃げ出す物語だ。過酷な物語だが、少女が誇り高い逃亡者なので、最後まであっというまに読んでしまう。

 

レザルド川

レザルド川

  • 作者: エドゥアールグリッサン,Edouard Glissant,恒川邦夫
  • 出版社/メーカー: 現代企画室
  • 発売日: 2003/12/01
  • メディア: 単行本
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同じくマルティニーク島生まれの作家による小説。『レザルド川』でももちろんマルティニークに住むムラートと黒人たちの世界は描かれるが、こちらではむしろマルティニークの美しい自然を賛美することに主眼が置かれている。思念で対話しながら川をくだるシーンは、ハンター×ハンター感があってよかった。

 

 同じくマルティニーク島出身の作家による「語り部」小説。こちらではマルティニークが誇る「語り手」文化に主眼が置かれる。ぱたっとぅ、さ! ええくりい! ええくらあ! といったクレオール語がふんだんに使われていて、声に出して読むと楽しい。

 

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

  • 作者: パトリック・シャモワゾー,ラファエル・コンフィアン,西谷修
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2004/07/01
  • メディア: 単行本
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 『素晴らしきソリボ』の作者による、クレオール文学の解説。エメ・セゼールによるネグリチュード(黒人文化を自覚する文学運動)、クレオール(黒人としてのアイデンティティよりはマルティニークにおける文化の混合に目を向ける運動)への歴史がまとまっている。

 

生命の樹―あるカリブの家系の物語 (新しい「世界文学」シリーズ)

生命の樹―あるカリブの家系の物語 (新しい「世界文学」シリーズ)

 

 読みたい。マルティニーク島の隣グアドループでうまれた作家による、カリブ家系の年代記。今年に復刊される見込み。

『ピラネージの黒い脳髄』マルグリット・ユルスナール|世界、この開かれた牢獄

「デンマークは牢屋だ」とハムレットがいう。「しからば世界も牢屋ですな」と気の利かぬローゼンクランツが言い返し、黒衣の王子をこの一度だけやりこめる。ピラネージがこの種の概念、囚人たちの宇宙という明確なヴィジョンをもっていたと想定すべきだろうか? 

――マルグリット・ユルスナール『ピラネージの黒い脳髄』

世界という名の、開かれた牢獄

ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージは18世紀のイタリア人版画家だ。ボルヘス村の住民であれば、『続審問』の表紙を書いた画家だと言えば伝わるだろう。

ピラネージの最も有名な作品が『牢獄』である。この異様な空間を描いたことにより、ピラネージはその後の画家や建築家、小説家、詩人に多大な影響を与えた。本書は、ピラネージの最も著名な作品『牢獄』の復刻版によせて書いたエッセイだ。

ピラネージの黒い脳髄 (白水社アートコレクション)

ピラネージの黒い脳髄 (白水社アートコレクション)

 

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*1

ピラネージの「牢獄」は全部で16枚あり、本書は全16枚の1版、2版をそれぞれ納めている。私は2012年に国立西洋美術館で開催された「ピラネージの牢獄展」で鑑賞して以来、この黒い脳髄のことを忘れられなくなった。

見ればすぐに「ピラネージだ」とわかるこの異様さはどこからきているのか。心をふさがれる陰鬱な牢獄だと見てわかる一方、この牢獄はまったくもって牢獄らしくないからだ、とユルスナールは述べる。

古今東西、牢獄は暗くて狭い場所であった。囚人にたいして使える場所は限られているし、余裕を持たせる意味がない。しかし、ピラネージの牢獄は、空間が広く開かれている。窓があちこちにあり、階段や通路は何人も寝転がれるほど広い。そして、驚くほどに清潔だ。牢獄につきものの腐った水、ねずみ、虫、汚れといった牢獄につきものの汚れがない。この広さと清潔さは牢獄よりはむしろ宮殿を思わせる。

とはいえ、ここが牢獄であることはわかる。牢獄には、鎖やとげ、うつむいて力のない匿名の影たちが配置されており、出口はどこにも見当たらない。開かれた窓の向こうには牢獄が続いている。この牢獄がえんえんと続くであろうことが予想できる。

 

ピラネージの牢獄は異様であるだけでなく幻想的であり、その源泉は遠近感の異様さにある。人物にたいして、空間と柱、鎖、窓があまりにも巨大だ。遠近法を理解していない素人はこうしたいびつな空間を描きがちだが、ピラネージはもともと卓越した風景画家であり、「牢獄」の遠近法は完璧である。「牢獄」はきわめて正確な遠近法に基づいて描かれているがゆえに途方もなく巨大で倒錯した空間であることになる。

 

「開かれている陰鬱」、これがピラネージの牢獄であり、「ダンテの恐ろしい漏斗に匹敵する」とユルスナールは書いている。

《牢獄》の背景には宗教観念がまったく欠落しているが、それにもかかわらずこれらの黒い奈落、これらの陰惨な落書きが、ダンテの「すべての希望を棄てよ」とあの恐ろしい漏斗に対応しうるイタリア・バロック美術唯一の壮大な作品であるという事実はゆるがないのである。

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*2

そして、これは人間が作り出した世界そのものではないか?

シェイクスピアがハムレットに「世界は牢獄だ」と言わしめたように、カフカが引き延ばされた不条理の城を描いたように、ピラネージは牢獄として私たちの世界を描いたのではないか。

ピラネージの牢獄は、突き詰めていけば、「人間は主体性を持って世界を変えうるか」、それとも「世界に精神を規定され、流され飲み込まれるか」という、文学、芸術、人文学が考える究極の問いのひとつに流れ着く。私はどこかで黒い脳髄に罹患してからずっと、この問いを考え続けながら本を読んでいる。

時間も生物の姿かたちもとり除かれているこの禁錮の場、すぐさま拷問室となるこれらの閉ざされた広間、そのくせ住人の大多数が、危ういことに安閑とくつろいでいるかのような場所、底なしでありながら出口のない深遠、これはありきたりの牢獄ではない。それはわれわれの「地獄」なのだ。

 

マルグリット・ユルスナール作品の感想

Recommend:黒い脳髄を持つ人びと

カフカ、ボルヘス、あるいはそれらの後継者たちが好きな人たちは、きっと黒い脳髄に罹患している。

続審問 (岩波文庫)

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 ピラネージの牢獄が表紙として使われている。「無限の空間」を描いたボルヘスと、ピラネージの無限の牢獄は、ともに同じ脳髄を継承しているように思える。

 

城―カフカ・コレクション (白水uブックス)

城―カフカ・コレクション (白水uブックス)

 

 終わらない永遠の引き延ばし、このうえなく世界でありながらありえない引き延ばしによって描かれたカフカもまた、ピラネージ的脳髄を持っていたと思われる。

 

世界という牢獄にとらわれていると叫んだデンマーク王子。「世界は劇場である」「世界は牢獄である」とシェイクスピアはいくつもの作品で語る。

 

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

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ダンテは地獄・煉獄・天国を漏斗のように描き、その後の画家および作家たちの世界観に決定的な影響を与えた。

 

阿片常用者の告白 (岩波文庫)

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 アヘン幻視文学と言えば外せない本書において、ド・クインシーはコールリッジからピラネージの牢獄について教えられたと書いている。そのとおり、『阿片常用者の告白』はまさにピラネージの牢獄から始まる。

 

対訳 コウルリッジ詩集―イギリス詩人選〈7〉 (岩波文庫)

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 ボルヘスのエッセイで鉄板の「コールリッジの夢」は、上記『阿片常用者の告白』にも登場した。コールリッジはつねに夢を見ていたのではないかと思わせられる。

 

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

 

 『監獄の誕生』は、「力の非対称性」という切り口で、かつて授業で読んだ。「身体の束縛」から「精神の束縛」に代わり、パプティノコンでは「視点の非対称性(監獄の刑吏は受刑者を見ることができるが、受刑者は刑吏を見ることができない)」が権力の原動力となる。ピラネージの牢獄は、身体を束縛はしていない。では精神は、視点はどうだろうか?

 

建築には「アンビルト(未完の建築)」という分野がある。「不可能な建築」という字面がたまらなく好きだった。また展覧会をやるか、本をもっと出してほしい。

『移動祝祭日』ヘミングウェイ|どこまでもついてくる祝祭

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」

ーーアーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』

どこまでもついてくる祝祭

 世の中には2種類の人間がいる。パリにどうしようもなく惹かれる人間と、そうでない人間だ。私は後者だが、周りにはだいたいいつも数人の「パリ人間」たちがいた。彼らはパリに足を踏み入れる前からパリを第二の故郷と見なし、パリを何度も訪れ、フランス語を学び、フランス語を使う仕事をして、何人かはパリに移住した。

本書を読んで、ヘミングウェイも「パリ人間」であり、彼らにとってパリは“A Mobable Feast”ーーどこまでもついてくる祝祭、移動祝祭日であることを知った。パリでワインを飲み、散歩をし、交流をして、「パリに帰りたい」と語る友人たちとヘミングウェイの言動がそっくりなものだから。

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

 

 

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『ノートル=ダム・ド・パリ』ユゴー|激情うごめく失恋デスマッチ

…こうなるともう、ノートル=ダム大聖堂の鐘でもなければ、カジモドでもない。夢か、つむじ風か、嵐だ。音にまたがっためまいだ。…こんな並外れた人間がいたおかげで、大聖堂全体には、なにか生の息吹みたいなものが漂っていた。

ーーヴィクトル・ユゴーノートル=ダム・ド・パリ

この鐘の音こそ、彼がきくことのできるただ一つの言葉だったし、宇宙の沈黙を破ってくれるただ一つの音だった。

古い友人が結婚してパリに移り住んだので、祝いにパリを訪れた。祝いの硝子と製氷機(ヨーロッパの製氷機は使い物にならないらしい)とともに、ユゴーの『ノートルダム=ド・パリ』を鞄に放りこんだ。

文庫化して手に取りやすくなってNHK『100分de名著』で紹介されたにもかかわらず、いまだ「みんな知ってるけど読む人はあまりいない」本書は、正気ではなかなか読む気にならず、異国で過ごす非日常で読むぐらいがちょうどいいと思ったからだった。このもくろみは当たっていて、私はパリでおおいに驚き、頭を抱え、怒りと呆れでパリ血糖値が上がり、結末で叫び、愛と呼ぶにはあまりにも醜悪で激烈な感情のヘドロに飲まれることになった。

ノートル=ダム・ド・パリ(上) (岩波文庫)

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ノートル=ダム・ド・パリ(下) (岩波文庫)

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『HHhH プラハ、1942年』ローラン・ビネ

 いったい何を根拠に、ある人物が、ある物語の主役であると判断するのだろうか? その人物に費やされたページ数によって? ——ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』

自分語りとアンチ歴史スパイ小説

 「事実かどうかを1次情報まで戻って確認せよ、重要なことから書け、つねに自分とすべてを疑え、客観性を忘れるな」。書く者としての心構えを、ボスや教授からくりかえしくりかえし聞かされてきた。

 だが、客観的に書くとはなんだろうか? それは人類に可能なのか?

 フランスの若く野心的な小説家は、この問いについての物語で答えようとした。ラインハルト・ハイドリヒ——第三帝国でもっとも危険な男、プラハの死刑執行人、虐殺者、金髪の野獣、山羊、ユダヤ人ジーズ、鉄の心臓を持つ男、地獄の業火が想像した最悪のもの、女の子宮から生まれたもっとも残虐な男、<HHhH>——Himmlers Hirn heibt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)という通り名を持つ男。

HHhH (プラハ、1942年)

HHhH (プラハ、1942年)

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『少年十字軍』マルセル・シュウォッブ

 いつも同じ黄金の面をわれらに向けるあの月も、おそらく暗く残忍な別の面をもつのであろう。……けれども予はもはやこの世の表面など見たくない。暗いものに目を向けたいのだ。

――マルセル・シュウォッブ「黄金仮面の王」

極彩色の幻影

 思い出したのはクリムト、尾形光琳の黄金だった。
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 絢爛という表現がふさわしいシュウォッブの世界には、鉱物のきらめき、赤と薔薇色の腕を狂わせて踊る炎、血にぬれた黄金仮面といった極彩色の幻影が乱反射している。かつての偉大な王の宝物殿に眠る古代地図や宝石が言葉を吐いたら、このような奇妙に煌めく物語を語り出すのかもしれない。

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『事の次第』サミュエル・ベケット

 聞いたとおりにわたしは語るそれから死もし死がいつかは来るものならそれでかたづく死んでいく——サミュエル・ベケット『事の次第』

狂人の脊髄


 これは奇書ですよ、といって手渡された。
 一時期、探しまわっていたのだが、あまりに見つからないので、わたしのなかでは幻獣あつかいしていた1冊である。ページを繰った瞬間になるほど、と思った。いや、奇書、という言葉ですむものかどうか。

 「事の次第これはすべて引用文ピム以前ピムとともにピム以後の三部にわけて聞いたとおりに私は語る」

 言葉と心象のたれ流しである。句点読点そのほか一切の読みやすさを放棄し、浮かんでは沈む心象風景をパラノイアのように繰りかえし語りつづける。五七五調の訳文のため、音はするすると入ってくるのだが、翻訳詩に特有の「言葉がなじまずにすり抜ける」感覚が尋常ではない。熱にうなされている時に、活字を読みこめないあの感覚を思い出す。イメージを結ぼうとしても、焦点がまったく定まらないのだ。

事の次第

事の次第

 誰かがいるどこかに生きてるどこかに途方もなく長い時間それからおしまいそこにはもういないもう生きてはいないそれからもう一度そこにいるもう一度終わってはいなかったまちがいだったほとんどはじめからやり直し同じ場所か別の場所でそのとき新しい心像光のなかの娑婆で誰かが病院で意識を取りもどす闇のなか

 語り手は言葉を尽くすが、誰かになにかを伝えようとする意思はさっぱり感じられない。夢現の中で自分のためだけに言葉の積み木遊びをし、気まぐれにたたき落としている印象だ。
 脳裏にはただ、脅迫的に繰りかえされた言葉の断片だけが残る。ずた袋、缶詰、泥のなか、尻、爪、缶切り、ウイ、ノン。この白濁とした心象の渦は、狂人が見る悪夢に似ている。



 本書は3部構成で、ピムと出会う前の「ピム以前事の次第」、ピムとともに暮らす「ピムとともに事の次第」、ピムが去った後の「ピム以後事の次第」からなる。
 ピムと出会いともに暮らす、といっても、その共同生活は常軌を逸している。ピムとの出会いは泥の中、「わたし」がピムの尻をさわってふたりは出会うのだが、なぜか「わたし」は缶切りをピムの尻に突き刺し、背中に爪で「わたしだけの文字」を刻み、徹底的に虐待する。ピムはピムで、栄養のある泥をすすりながら生きているらしい。

 ピムの尻に缶切りを突き刺しているわたしのかわりにわたしの尻に缶切りを突き刺しているボムの姿を

 これらの情景は、なんどか文章を読みなおして、どうにかつかんだ断片にすぎない。あとがきでは訳者が情景を整理しているが、あそこまで情報を体系化するためには、いったいどれほど読みこまなければならないのかと、途方に暮れる。もうなすがまま、オブセッションのように繰り返される言葉にひきずられるのでせいいっぱいなのだから。

 ここで何かがまちがっている

 第1部はまだ語り口のユーモアにほほえむ余裕もあったのだが、第2部でそんなものは霧散する。そして確信した、この本は狂っている。


 ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』エリアス・カネッティ『眩暈』など、狂人をあつかった強烈な作品を読んできたが、『事の次第』はその衝撃をすらりと飛びこえ、手の届かない向こう側にいってしまった。
 この世界は閉じている。だからこの本は悲惨だ。狂った人間は、切ないほど間違った世界に生きていて、しかもそこから抜け出す手段を持たない。ひとつの体のなかで響くのは、自分が繰り返す言葉ばかりで、外の世界とつながらない。おぞましいと感じる狂気より、悲惨だと感じる狂気のほうが救いがない。
 「わたし」は、泥の中から現れて、這いまわる。しかし、そこから抜け出せない。時折、かつて「光のある世界」に住んでいたという心象が、あぶくのように浮かんではあっというまにはじける。「わたし」はそれを悲しむでもなく、ただ受け入れているように見える。

 人生人生光のなかの娑婆でのもう一つの人生どうやらときおりはわたしもあんな人生送ったこともあったようしかしもう一度あそこへ娑婆へ上ることなどおよびもつかず誰もそこまでやれとは言わずあんなところにいたことなんかありはしない泥のなかにときおり浮かぶ心象いくつか大地空人間何人かは光のなかにときには立って


 読み終えた今、思い起こすのは、うす暗い病室の片隅、そこでもう目覚めることのない人がひたすら夢を見ているという情景だ。「わたし」は何かの被害者であり、精神に異常をきたしたのだろうか。詳しい説明はなにもなくただほのめかされるばかりだが、全体に満ちる暴力の示唆と、感情の機微を失った白くまっ平らな印象、調律が狂ったようにくりかえされる言葉の渦が、悲惨なひとりの抜け殻を思い起こさせてしかたがない。

 ひとりぼっちで泥のなかそう(ウイ)暗闇のなかそう(ウイ)まちがいないそう(ウイ)あえぎながらそう(ウイ)誰かがわたしの声をきいているいや(ノン)誰もきいていないそう(ノン)

 詩的な言葉でもって、狂人の脳髄を這い回る。まるで精神の煉獄だ。ベケットは何を思って、この白濁を世に残したのだろうか。


サミュエル・ベケットの著作レビュー
『ゴドーを待ちながら』

Samuel Beckett"Les Editions de Minuit"1961.

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 この切実さはなにごとだろう。フォレストの文章を読みすすめるごと、そう思わずにはいられない。

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