ボヘミアの海岸線

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『誓願』マーガレット・アトウッド|地獄に風穴を開けるシスターフッド

「トショカンってなに?」

「本をしまってある場所。本でいっぱいの部屋が、たくさん、たくさんある」

「それって、邪なもの?」わたしは訊いた。「そこにある本って?」わたしは部屋いっぱいに爆発物が詰めこまれているさまを想像した。

ーーマーガレット・アトウッド誓願

 

女性が男性に徹底服従させられるアメリカを描いた胃痛抑圧ディストピア小説侍女の物語』は、赤い小説だった。赤は、高位男性に仕える侍女たちが着る服の色、血の色、妊娠の徴の色、怒りの色、警告の色、不穏の色で、表紙から中身まですべてが赤に染まっていた。

34年ぶりに出た続編『誓願』の表紙は、赤の補色(反対色)、緑である。『侍女の物語』続編が出ると聞いた時、またあの不穏で孤独なつらさを味わうのかと思っていたが、表紙の色を見た時に、これは希望が持てるのかもしれない、と思った。

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『洪水の年』マーガレット・アトウッド|暗黒企業、エコカルト、世界の終末

光がなければ、望みはないが、闇がなければ、ダンスはない。

――マーガレット・アトウッド『洪水の年』 

 

巨大企業、エコカルト、世界の終末

旧約聖書の物語「ノアの洪水」は、世界滅亡の話だ。世界を150日間の洪水が襲って、箱船に乗ったノア夫婦と動物以外はすべてが死んだ。

いま私たちが生きる世界は、おそらく洪水だけでは滅亡しない。だが、目に見えない「水なし洪水」がきたらどうだろうか?

洪水の年(上)

洪水の年(上)

 
洪水の年(下)

洪水の年(下)

 

 

マッドアダム三部作、第1作

 

「マッドアダム三部作」の第2作である本書は、「水なし洪水」によって人類が滅亡するまでの物語である。 『オリクスとクレイク』と同じ世界の話ではあるものの、前作とは独立した登場人物のため、どちらから読み始めてもかまわない。

『オリクスとクレイク』では巨大企業と特権階級の物語が語られた。『洪水の年』は「平民」女性と、「神の庭師」と呼ばれるエコ宗教集団にまつわる物語だ。

 

  <水なし洪水>が破壊と同時に浄化をもたらし、世界中が今や新しいエデンでありますように。今はまだ新しいエデンではなくとも、間もなくそうなりますように。

語り手はトビーとレン、ふたりの女性だ。どちらも「神の庭師」に所属している。どちらの人生もそれぞれに過酷で、周囲に振り回されている。だが、彼女たちはやがて人生を自分で動かしていく。搾取してくるものから逃れ、前を向いて、自分の力と頭を使ってタフに生き延びる。

 アダム一号はよく言っていた。波を止められないのなら、船で行けばいい。修復不可能なものでも、まだ使えるかもしれない。光がなければ、望みはないが、闇がなければ、ダンスはない。つまり、悪いことにも何かしら良い面がある、挑戦を引き起こすから。

2人の女性がシビアな現実を生き延びるサバイバルストーリーとしておもしろいが、他にも見どころがある。

まず、最大の謎――なぜ人類が滅亡したのか、背景にうごめく力と思惑はなんだったのか――がじょじょに見えてくる展開がうまい。『オリクスとクレイク』『洪水の年』2つの側面から見ると、陰にうごめいていた力が明らかになる(この2作では全貌は明らかにならない、おそらく第3作ですべてがつながるのだろう)。

世界観もよく作りこまれている。なんの肉を使っているかがわからない「シークレットバーガー」、極悪囚人たちが互いに殺し合うショー型監獄を生中継する番組、大企業の製品を使って自己改造する美容クリニック、臓器を提供するために改造されたブタ、それらすべてを取り仕切っている大企業コープセコー。

これらの細部はどれも現実の延長線にある。私たちの世界では倫理がかろうじて勝って留まっているだけで、いつこうなってもおかしくないものばかりだ。違う世界戦の話なのにどれも見覚えがあって、くらくらする。 

そして「神の庭師」たちも、いかにもありそうなエコ宗教だが、どこか不穏だ。彼らの説話はキリスト教をモチーフにしていて、平和主義のように見えるが、穏やかな言葉の裏には巨大な不穏がちらついている。だんだん言っていることが歪んできて、後半になるにつれて緊張感が高まってくる。

捕食獣の日に私たちが瞑想するのは、<第一級捕食者>としての神の面です。急で激しい神の顕現。そんな<力>の前での、人間の小ささと恐怖心、私たちの<ねずみ性>とでも申しましょうか。壮麗な<光>の中で個が消滅させられる感じです。

 ……食べるのと食べられるのとでは、どちらがより恵まれているでしょうか? 逃げるのと追うのでは? 与えるのと与えられるのでは? これらは本質的には同じ質問です。このような質問はあもうすぐ仮定のものではなくなります。どんな<第一級捕食獣たち>が外をうろついているか、わからないからです。

 

アトウッドの魅力は、大きい物語のうねりと謎、細部の作りこみがどちらもうまく、かつ現代に生きる私たちが「自分の物語になりうるかもしれない」と思わせる現実味にあると思う。

登場人物もいい。『オリクスとクレイク』『洪水の年』ではともに、社会的地位がなく権力者にとって価値がない人たちがタフに生き延びようとする。その姿がまぶしい。 

じつに胃が痛くなる世界で、私などはとても生き延びられる気がしないが、彼女たちは暗黒に塗りつぶされた世界で、全力でダンスする。たとえ観客が誰もいなくても、死がそこら中に転がっていても、彼女たちのために彼女たちはダンスして闇の中で笑う。なんと人間だろうか。そういう描写が私はとても好きだ。

 アダムたちとイヴたちはよく言っていた。“私たちは自分たちが食べたものからできている”って。でも私が言いたいのは、“私たちは自分たちが望むものからできている”ということ。もし希望を持てないのなら、何をしたって無駄でしょ。

 

 マッドアダム三部作、第1作


マーガレット・アトウッドの著作レビュー

 

Recommend

人類が絶滅するまであと少しのアメリカ・ロード小説。おぞましい暴力と純粋な子供のコントラストが極北すぎて脳の混乱が起きる、すさまじい小説。

旧約聖書を知っていますか

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新約聖書を知っていますか (新潮文庫)

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 マッドアダム三部作をじゅうぶんに楽しみたいなら、聖書の知識が必要だ。聖書は確かに楽しいのだが、とにかくいろいろな説話が多いので、あまりなじみがない人は、聖書そのものに手を出す前に、概要を知ることをおすすめしたい。

『オリクスとクレイク』マーガレット・アトウッド|人類の絶滅神話を語る、世界最後の男

 “エクスティンクタソン(絶滅マラソン)。モニターはマッドアダム。アダムは生ける動物に名前をつけた。マッドアダムは死んだ動物に名前をつける。プレーしますか?”

――マーガレット・アトウッド『オリクスとクレイク』

人類の絶滅神話を語る、世界最後の男

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*1

罪深い人類が絶滅した世界はエデンだろうか? それとも地獄だろうか?

 

装丁に使われているボッシュの絵画「快楽の園」には、左に「エデンの園」、中央に「エデンから追放された者たちが性的快楽を求める現世」、右に「地獄」が描かれている。

胃痛エンタメの大御所、マーガレット・アトウッドは、このすべてをとてつもなくえぐい形で「マッドアダム三部作」に書きこんだ。

オリクスとクレイク

オリクスとクレイク

 

 

本書は、マッドアダム三部作(『オリクスとクレイク』『洪水の年』『マッドアダム』)の第一作である。『侍女の物語』で女性にとってのディストピアを描いたアトウッドは、人類すべてにとってのディストピアをうみだした。

 

 語り手の名前はスノーマン。人類が滅亡した後の世界でひとり生き残った旧人類だ。だが、厳密にはひとりではない。スノーマンの他に、人間の原罪をすべて取り払ったような「理想の人類」がいる。彼らは怒りや嫉妬がなく、草食で食べ物に困らず、歌が好きでいつも楽しげに笑っている。

スノーマンは身体能力で劣っているし死にそうだが、理想の人類たちに敬われている。なぜならスノーマンは物知りで「世界の成り立ち」「新人類を作った人たち=神」を知っているからだ。

 

そうして「人類絶滅」の神話がつむがれる。いったいなぜ人類は絶滅したのか。なぜ新人類がうまれたのか。なぜスノーマンが生き残ったのか。

スノーマンがかつてジミーという名前の青年で人類がまだ生きていた頃のこと、オリクスとクレイクのことが明らかになっていく。

 

終末前の世界は、特権階級と平民に分断された階級社会だった。特権階級とは、国を支配する医療系の巨大企業コープセコーと理系の研究者たちである。

コープセコーは資本主義の邪悪を煮詰めたような企業で、じつにまがまがしい。人類はコープセコーが儲けるために存在する。人間は階級にわけられて値つけされ、それぞれの形でコープセコーの利益となり、やがて途方もない悪行が明らかになる。もはやブラック企業とかそういう次元ではない。悪、これは資本主義を突き詰めた悪だ。

つまりこれが自分の今後の人生だ。招待されたが、実際にはたどり着かない番地で開かれているパーティのように思われた。自分の人生において、誰かは楽しんでいるのだろう。ただし、この瞬間その人物は自分ではなかった。

このディストピア世界は、私たちが生きる世界とは違っているが、まったく違うわけではない。むしろあらゆるところに既視感を覚えて愕然とさせられる。

そう、アトウッドが描くディストピアはいつでも現実の延長線上にある

侍女の物語』にまつわるインタビューで「私が想像したものはひとつもない」と答えているように、アトウッドは現実の権力情勢、経済、社会、宗教、科学技術を組み合わせ、「現実と地続きになった想像力」で世界を組み上げる。現代の資本主義を突き詰めて倫理のタガが外されたら、きっとコープセコーみたいになるだろう。登場人物たちも、誰もが「実在しそうな人たち」だから、たいへん心をえぐられる。

生きづらさ最高潮の世界にうんざりさせられているところに、ぬるりと不穏がすべりこんでくる。不穏は後半になるにつれて増幅し、そしてあの時がやってくる。

 

ポスト・アポカリプスものは すでに世の中にたくさんあるが、人類が絶滅した経緯を「神話」として語り継ぐ人がいるところが特徴だと思う。

「マッドアダム三部作」は、聖書を強烈に意識している作品だ。シリーズ名が「マッドアダム」と最初の人類の名前をもじっているし、続編『洪水の年』では、キリスト教の説話と単語をもちいて世界の滅亡が語られる。そして、聖書でもなんどか人類が絶滅していることを思い出す。

 3作目『マッドアダム』を読んでいる途中ではあるが、「マッドアダム三部作」はよくある終末系エンターテインメントには収まらない作品だと期待している(もちろんエンターテインメントとしてもおもしろい)。なぜならアトウッドだからだ。アトウッドの世界構築、細部の作りこみ、胃痛エンタメ展開に、私は信頼を寄せている。多くの人が語ってきた人類滅亡を、アトウッドがどう描くのかが楽しみだ。

何かの一線が越えられ、何かの範囲が越えられてしまったという気持ちにどうしてなるのだろう? どこまでやったらやりすぎで、どこまで行ったら行きすぎか?

 

 

マッドアダム三部作、第2作め

 

マーガレット・アトウッドの著作レビュー

Recommend 

 日本で有名な終末フィクションといえば『20世紀少年』だろう。20世紀少年では国を牛耳るのは政党である。ナチスオウム真理教をモチーフにしていたからだと思われるが、「マッドアダム三部作」では巨大企業が権力をにぎっているため、より現代に近いと思う。

 

人類が絶滅するまであと少しのアメリカ・ロード小説。おぞましい暴力と純粋な子供のコントラストが極北すぎて脳の混乱が起きる、すさまじい小説。

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新約聖書を知っていますか (新潮文庫)

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 マッドアダム三部作をじゅうぶんに楽しみたいなら、聖書の知識が必要だ。聖書は確かに楽しいのだが、とにかくいろいろな説話が多いので、あまりなじみがない人は、聖書そのものに手を出す前に、概要を知ることをおすすめしたい。

『侍女の物語』マーガレット・アトウッド|「男の所有物」となった女の孤独な戦い

わたしたちは二本の脚を持った子宮にすぎない。聖なる器。歩く聖杯。
−−マーガレット・アトウッド侍女の物語

 

2017年、Huluがディストピア小説侍女の物語』をドラマ化して人気を博しているという。トランプ政権になって『1984年』とともに『侍女の物語』が平積み現象が起きてからすぐドラマ化されたことになる。

 「映像化したら迫力があるだろう」と思っていたから、さっそくトレーラーを見てみた。壁に揺れる絞首の縄、義務をひたすら説く監視役の老女、胃がぎりぎりするような不安と閉塞感、なにより侍女たちが着る服の一面の「赤」が鮮烈でえぐい。 彼女たちがまとう赤は女の色、血の色、妊娠の徴の色、怒りの色、警告の色であり、彼女たちの姿を見るごとに心が落ち着かなくなる。

侍女の物語 (ハヤカワepi文庫)

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『彼方なる歌に耳を澄ませよ』アリステア・マクラウド

山々はわれらをわかち、茫漠たる海はわれらを隔てる――それでもなお血は強し、心はハイランド。 ――アリステア・マクラウド『彼方なる歌に耳を澄ませよ』

血は水よりも濃い

スコットランド人に会ったら、まず言われること。イングランドとスコットランドを絶対に言いまちがえてはいけない。料理がまずいのはイングランドであって、スコットランドを一緒にしないでほしい。ハギスとウィスキーとバグパイプは最高だ。そして、イングランドとスコットランドを絶対に言いまちがえてはいけない。

日本人にとって「英国」という国はロンドンやイングランドのイメージとつながりがちだが、ブリテン島の北半分はスコットランドが占めている。スコットランドは英国連邦内にとどまりながらほぼ独立国家であり*1、そのアイデンティティと誇り高さは上記の言葉にも現れている。

海を数千キロも隔てたカナダのケープ・ブレトン島に住むアリステア・マクラウドの祖先は、こういう土地から来た人々だった。6代たってもなお、彼らはゲール語で話し、ゲール語の歌を歌い、バグパイプのCDを鳴らし、フィドルを弾きウィスキーをかっくらいながら踊る。それでもなお血は強し、心はハイランド。これは、血と塩と氷でできた一族の物語である。

彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)

彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)

*1:2014年は独立投票で世界中の注目を集めた。

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『灰色の輝ける贈り物』アリステア・マクラウド

 「わかってるよ、母さん」とお父さんが言う。「よくわかっているし、みんなには感謝しているよ。ただ、とにかく、同じ一族という仕組みのなかでは、もう生きられなくなっているんだよ。自分とか自分の家族とかを超えて、ものを見なきゃ。今は二十世紀なんだから」
 「二十世紀?」とおばあちゃんは市松模様のエプロンの前で大きな手を広げる。「私に言わせりゃ、自分の家族がなくて、何が二十世紀だと思うけど」 

——アリステア・マクラウド「帰郷」

受け継ぎたいもの

 『灰色の輝ける贈り物』は、土の中に何年も埋まっていた燭台をみがきあげて炎をともしたような短編集だ。あらすじを語ったところで、このいぶし銀のような輝きはおそらくなにも伝わらない。本書の魅力は、薄霧のなか幻のように浮かび上がる一景、生きているもののにおいと温かさにすりよる言葉はこびにある。


 マクラウドは寡作の作家である。31年のあいだに書いた短編はわずか16本、本書は前半の作品をおさめる(後半は『冬の犬』に収録)。舞台はカナダ、ケープ・ブレトン島。マクラウドがくりかえし描くのは、家族の中にひそむ「落差」と「ずれ」だ。
 同じ土地に住む、同じ血をわけた一族同士でも、さまざまな考えや立場の人間がいる。親の世代と子の世代、都会に住む者と田舎に住む者、労働を愛する者と勉学を愛する者。そして、いまの立場をみずから選択した者、環境によって選択せざるを得なかった者。

灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)

灰色の輝ける贈り物 (新潮クレスト・ブックス)

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『短篇コレクションI』池澤夏樹編

[世界という名のタペストリ]
Natsuki Ikezawa edited Colleted Stories I,2010.


 世界中の文学から短編を集めたコレクション第1弾。本書は、主にアメリカ大陸、アジア、アフリカの作品を収める。
 「目次そのものが自分の作品であるような気がする」、池澤夏樹は帯にこう書いている。ずいぶん挑戦的だなあと思いながら目次に目をとおし、目次の最初2編のタイトルでこの本を購入しようと決めた。最初にコルタサル「南部高速道路」、次にパス「波との生活」。「南部高速道路」は、海外文学を好きになってもらえたらという願いをこめて、海外文学読み始めの人に勧める短編だ。パス「波との生活」も、南米短編の名作として必ず紹介される。

 「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」は、試みはすごいと思うけれど、たまにひどく外れる(なぜサガンを収録したのか、いまだにちょっと分からない)。だけど、本書は買ってみて損はなかろうという気にさせられた。やはり、なっちゃん先生は作家より編集者向きかもしれない。

 以下、各編の感想。気に入ったものには*。いまいちのものには▲。


コルタサル「南部高速道路」
 アルゼンチン。不条理きわまる大渋滞に巻き込まれた人々。久しぶりに読んだけれど、やっぱり好きだ! 半年ぐらい渋滞しているとか、ちょっと考えたらありえないシチュエーションなのに読ませる読ませる。一寸刻みでしか動かない大渋滞にじりじりさせられるからこそ、最後の加速はうなる。 ⇒感想

パス「波との生活」
 メキシコ。波を恋人にしたら大変になった男の話。波は気まぐれで男はおぼれ(直喩的でも暗喩的でもある)、波の愛撫に我を忘れる。けっこう恋人らしいこともやっているのだけれど、波はやっぱり波で、貯水タンクに入れられたり子供に飲まれたりもする。「女は波に似ている」と、これだけ美しく書いた短編はあまりない。

マラマッド「白痴が先」   
 アメリカ。病気持ちの男が、白痴の子供を遠い親せきの家に送ろうと奔走する数時間。凍えるような寒い夜、金繰りのために徘徊する老人の姿を見て「これはアメリカじゃなくてロシアじゃないか?」と思ったら、作者はやっぱりロシア系移民だった。

ルルフォ「タルパ」
 メキシコ。病持ちの男を過酷な旅に連れ出して死なせる妻と義弟。病持ちの男が黄色いうみを出してどろどろ腐っていく姿もすごいが、男を殺すために密約を交わした妻と義弟(しかも不倫中)の心のどろどろぶりもすごい。なのに、メキシコの大地はどこまでも乾いている。これぞルルフォ! ⇒感想

張愛玲「色、戒」
 中国。時は世界大戦中、女スパイが狙うは金持ちの男の命。妻の友人のふりをして男をたぶらかし、その命を狙う。中国映画みたいなベタベタの展開だが、けっこう好きだったかも(実際映画になったらしい)。お互いに愛がある、そのことを唐突に知る衝撃。たぶんそれさえあれば、2人が一緒になろうがなるまいが、後はどうでもいいことなのだ。お互いが「相手は自分を愛している」と思うあたりが憎い。

イドリース「肉の家」
 エジプト。イスラム禁欲主義とタブーの話はどうにも苦手だ。盲目の男が婿入りした先は、3人の娘と未亡人が住む沈黙の家。彼らは飢えていた。だから、誰もが沈黙しながらタブーに手を伸ばす。これは性に合わない……。

ディック「小さな黒い箱」  
 アメリカ。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の原型となったという1作。共感ボックスを触ると、救い主マーサーの痛みを皆で分かち合える。「共感」と「共有」の意味をさらりと問うてくる。一緒の流れを共有する、という点では、けっこうTwitterとかとも似ているかなあと、ちょっと思った。

アチェベ「呪い卵」
 ナイジェリア。キティクパ=天然痘の神が暴れた末に、かつて賑わっていた市場は蠅の王国となった。「天然痘の神」「夜の仮面たち」「呪いの卵」など、アフリカの世界観にひたれる。「彼らは確かに実在するのだ」。

金達寿「朴達の裁判
 朝鮮。統制時代において、最もインテリが集まるのは監獄だ。もともと無学だったのに、あまりに監獄送りされたためすっかり教養を身に付けた朴達のユーモラスな反抗。「えっへへ……」と卑屈な笑いを浮かべながら、その実何度も政府に反抗する朴達は、庶民派の英雄なのかもしれない。最後のカタルシスはなかなか。それにしても、目つきの怖い陪審員が数十人って怖い。

バース「夜の海の旅」
 アメリカ。夜の海をひたすら泳ぐ兄弟たちの独白。わりとすぐに正体が分かってしまうので、なんともいえない微妙な気持ちになった。

バーセルミ「ジョーカー最大の勝利」
 アメリカ。『バットマン』を冷静に見たらトンデモ話だよねと、文学的につっこんだらこうなった。「君は何百マイルも離れた場所にいると思っていた!」「そうなんだけど、なんかバットマンが呼んでいる気がしたから、ジェットで来たよ」。いわゆるアメリカ人の内輪向けな笑い。

モリスン「レシタティフ──叙唱」
 アメリカ。白い女と黒い女がそこにいて、幼馴染として孤児院で過ごす。最後まで読んで、どっちが白人か分からないことに気がついた。肌の色による差別、のし上がるという感覚、羨望と被害者意識……いかにもどこまでもアメリカ的。

ブローティガン「サン・フランシスコYMCA讃歌」
 アメリカ。詩が好きな男が、鉛管類を外して詩に置き換えたらとんでもないことになった。お気に入りは詩による「焚書主義者め!」という罵倒文句(どこかで使いたいが、どこで使うんだろう)。シェイクスピアの詩はただもうニコニコしている。脱力しながら、ため息つくように笑いが漏れた。 ⇒感想
カナファーニー「ラムレの証言」
 パレスチナ。炎天下の街中で、イスラエル人がパレスチナ人を犬のように殺す。家族を殺された男が考え出した結論。たった数ページなのに激烈に重い。こんな場面が、いったいこれまでにいくつ繰り返されたのだろう。最後の目配せが血のように赤く、砂のように苦い鮮烈な印象を残す。

マクラウド「冬の犬」
 カナダ。ある冬の極北の地で、助かった命と助からなかった命があった。これは好きな短編だ。血は熱く、息は白く、流氷は何もかもを凍らせる。冬の海に落ちると最初は暖かいと感じるらしい。夏なのに、思わずコートをにぎりしめたくなった。⇒感想
カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」
 アメリカ。本当に数年ぶりにカーヴァ―を読んだ。空気の読めないパン屋のキャラが際立っている話。子供が交通事故に会った時の親の気持ちは迫真にせまる。なのに、パン屋はどうにも非常識で、へんなかみ合わせの悪さを感じる。どんなにへこんでもうまいものを食べよう。この言葉には同意。それはきっと慰めになる。

アトウッド「ダンシング・ガールズ」
 カナダ。「アメリカ人はカナダのことに興味がない」というが、それは本当なのだろうか……。いろいろな国籍の人が集まる人種のるつぼアメリカで、今も昔も起こっている文化のつばぜり合い。都市デザインを専攻するカナダ人女子学生の願いは、平和ボケしているけれどなんだか素敵だ。

高行健「母」
 中国。ダメな息子の独白。「お母さん、話してください!」とか言われても、なんかなあ……と思ってしまう。母については、人類誰もが物語を持っている分、難しいのかもしれない。

アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」
 シリア。レバノン生まれの男と女がパリで出会う。男の奴隷であることが良い女の条件という、古い慣習を「つまらない」と思いつつ従順な女の理想を捨てきれない男と、フランス的自由思想に浸りきった女には、どうにも埋めがたい溝がある。だからこそ人は恋をして、だからこそ人は傷つくのだろうが。ちなみにこの話にはおせっかいな幽霊が出てくる。彼女の語る「妻にすべき女」の表現は、もはや喜劇の域なので、わりと好き。

目取真俊「面影と連れて」
 沖縄。魂を見る発育遅れの女性が、ガジュマルの木の下で語りかけてくる。やはり日本語で書かれているせいか、すっと水を飲むように染みいった物語だった。「沖縄のおばあは素敵」だという刷り込みが、私の人生のどこかであったらしい。魂を見ることができる人は、いまこの日本にはどれくらいいるのだろうか?


河出書房新社 『池澤夏樹=世界文学全集』


recommend:
『ラテンアメリカ五人集』…リョサ、パチェーコ、アストゥリアス、パス、オカンボの作品が一度に読める。
『考える人2007年春号 短篇小説を読もう』…「わたしの好きな短篇3作」コーナーで本を探す。

『冬の犬』アリステア・マクラウド

 私たちは、将来のいつかまたその時が来るまで生き長らえることになった。

 犬はもはや、将来のいつかそのときのために命を救われることはなかった。(「冬の犬」より)

流氷のような

 
 昔よりも、寒い季節が好きになった。おそらく冬好きの人間がそばにいたせいだろう。うまいスープを飲んで、暖かい部屋でのんびりと本を読む。冬の楽しみ方が少しだけ上手になったように思う。

冬の犬 (新潮クレスト・ブックス)

冬の犬 (新潮クレスト・ブックス)

 日本よりもずっとずっと寒い極北の地、カナダの現代作家による短編集を読んだ。舞台はカナダ東端にある厳冬の島、ケープ・ブレトン。冬には流氷が接岸する。
 この本は、白と深緑、そして赤のイメージがある。しんしんと積もる深い雪、凛と伸びる針葉樹、そして人の吐く息と流れる血。文章なのに、どれもが触れられそうな感触がある。「人が人として生きる」というテーマを、これほど混じり気なしに描ける現代作家はそういないだろう。「脈々と受け継ぐ血縁」と「時代の流れ」が、縒り糸のように絡み合って模様を作る。できあがった模様を、そのまま流氷に閉じ込めたら、たぶんこんな短編集になるんだろう。
 以下、各編の一言感想。気に入った作品には*。


すべてのものに季節がある
 サンタクロースがいなくなった日。子供から大人への転換点は、代々受け継がれていく。「誰でもみんな、去ってゆくんだ。でも嘆くことはない。よいことを残していくんだからな」。

二度目の春
 「子牛クラブ」とは、良い牛を交配するための仕組み。極北の地における牧畜の様子が面白い。牛の息と草のにおいが立ち込めるような。

冬の犬
 かつて命を救ってくれた犬。そして自分が命を助けられなかった犬。流氷の上で起きた秘密の事件の物語。氷づけになったアザラシの描写に心を奪われた。アザラシと目が合う瞬間、アザラシが、流氷の割れ目に浮かんでは沈む瞬間の描写が、映画のように美しい。

完璧なる調和
 ゲール語の歌を歌う78歳の男の物語。男は、ただの1週間で妻と子供と弟を失った。苦しい歴史を持つ民族の音楽ほど美しいという話をどこかで聞いたことがある。男は、都会で行われるコンサートのために、ただ数行の詩を削ることを拒んだ。コンサートのプロデューサーが、いかにも現代的で軽薄な人物で、重厚さを称える老人ときれいな対比を成している。原題は「the Tuning of Perfection」。これはすばらしい。

島が太陽を運んでくるように
 とある男が、灰色の大きな犬にかみ殺された。以来、男の一族は犬の亡霊のことをしきりに口にするようになった。「いつか、自分も狂うかもしれない」と、若者はおびえる。わたしも自身に流れる「血」におびえた経験があるから、彼らの気持ちはなんとなく分かる気がする。

幻影
 脈々と受け継がれる親子4代「盲目の血」の歴史。古代の叙事詩や『百年の孤独』を思わせる。人間の原初の物語は、「血の物語」なのだなあとしみじみ思う。目に見えない「幻影」を見る力を持つ人が、生まれては死に、生まれては死に。


 灯台守の孤独な老女が語る秘密。「灯台」というモチーフが好きすぎる。たぶん、光を送るという原初的かつ奥手な手法と、孤独のイメージが重なっているからだろう。ただ1夜限りの恋人を思い起こす。最後のシーンはすばらしい。彼は現実だったのか夢だったのか。

クリアランス
 クリアランスとは、18世紀に起きたハイランド人のスコットランド追放のこと。かつて住んでいた土地を追われる人々。彼らはスコットランドから逃れてカナダへ来た。しかし彼らの子孫もまた、自分が住んでいた土地を追われていく。


 代々受け継がれてきた生活と、現代社会との衝突が苦い。しかし雪のような言葉たちは、その苦ささえも飲み込んでしんしんと降り積もる。この静かで悲しく苦い感情を、何と呼べばいいものか?


おまけ
 最近のエントリ「バイオリンは歌う、しかしフィドルは踊る」で、カナディアン・ケルトバンドのLeahyを紹介している。ケルトの音楽もまた、移住の時に受け継がれたのだなあと。


recommend:
アリステア・マクラウド「灰色の輝ける贈り物」…もう1つの短編集。
ミルハウザー「イン・ザ・ペニー・アーケード」…端正で精巧。時代に乗れない悲しさと美しさ。


Alistair MacLeod "Island",2000.

『イラクサ』アリス・マンロー

[日常の分岐点]
Arice Manro Hateship,Friendship,Courtship,Loveship,Marriage , 2001.

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)


 カナダを代表する作家による、短篇小説。アリス・マンローは「短篇小説の女王」と呼ばれて、タイム誌でおなじみの「世界でもっとも影響力のある100人」に選ばれている。本書は、彼女が70歳の時に発表された。

 アリス・マンローは"The point of no return"、人生の分岐点、決定的瞬間を描くことがうまい。幸せな新婚生活が、ケーキの行方不明というごく小さな出来事で、なにかがズレる。 しかもそうした瞬間は、他の人には決して分からないような一瞬に、ごくごくありきたりな日常の出来事の中に起こる。 何も変わっていないように思えるのだけれど、それまでとは何かが決定的に変わってしまった、という感じに。

 時間軸が10年単位であちこち飛ぶものだから、最初はそのテンポにとまどうけれど、そのうち長編映画でも見ている気分になってくる。 一文一文が、手のひらにじわりとくる重さを持っている。

 好きな思った作品は、物語としておもしろい「恋占い」、情景描写が美しい「浮橋」、最後の一文に収束する「クイーニー」

 多くの短編作家は人生の一瞬を切り取るが、アリス・マンローの作品には、人生を眺める大きな時間軸がある。 短編なのに、長編映画を見た心地になれる、希有な短編集。


reccomend:
アリステア・マクラウド『冬の犬』 (カナダ生まれのじんわりとした雰囲気の物語)
チェーホフ『チェーホフ・ユモレスカ』 (短編の名手 inロシア)
rate:☆☆☆☆