ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『海と山のオムレツ』アバーテ・カルミネ|愛と祝祭に満ちた、ごはん文学

「豚のパスタ」

豚の肉とあばら骨の入ったトマトソースをとろ火でじっくり煮込んで、大量のミートボールを作ってから、ジティ(パスタ)とまざあわせる。

パスタとソースがまるで恋人どうしのように寄り添い、全員がとろけるキスの代わりにたっぷりのチーズをまぶして、互いの見わけもつかなくなるまで混ぜる。 

ーーアバーテ・カルミネ『海と山のオムレツ』

 

海外文学を読んでいる時、ごはんシーンはとりわけ好きなもののひとつだ。食べることが好きだし、異国の料理も好き。だからもちろん海外文学の料理シーンも大好きだ。

食べたことがない料理、素材がわからない料理、味を想像できない料理といったセンス・オブ・ワンダー料理もいいし、食べる者みながアーとうめく絶品料理の描写も最高だ。ごはんシーンが出てくると、速度を落としてゆっくりと読むことにしている。

 

イタリアうまれの作家が書いた『海と山のオムレツ』は、食べることと食事にまつわる思い出でできた、生粋のごはん文学だ。連作短編集のすべてに料理の名前がついていて、料理にまつわる思い出が祝祭的に語られる。

イタリア料理にまつわる文学なのかといえば、ちょっと違う。 著者は、アルバレシュ言語圏の村に育ったアルバレシュ系イタリア人で、本書に登場する料理はアルバレシュ料理とカラブリア料理だ。

アルバレシュ文化は、イタリアの少数言語文化のひとつで、数百年前に海の向こうのアルバニアから、イタリア南部カラブリア地方に移り住んだアルバニア人由来の文化だ。アルバレシュ語は現在8万人ほどの話者がいて、ユネスコが「消滅の危機にある言語」と認定している。

 

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『ウンガレッティ全詩集』ジュゼッペ・ウンガレッティ|呆然とした空白の漂流

路上の/ どこにも/ 家を/ ぼくは/ もてない

新しい/ 風土に/ 出会う/ たびに/ かつて/ 慣れ親しんだ/ おのれを見つけては/ ぼくは/ やつれてしまう

そのたびに見を引き離してゆく/ 行きずりの者として

生まれながらに/ あまりにも生きてしまった/ 時代からの生還

ほんの始まりの/ 命の瞬間を/ 楽しむだけだ

そして無垢の/ 土地を探しにゆく

ーージュゼッペ・ウンガレッティ「漂白の人」

 

須賀敦子『イタリアの詩人たち』で、ウンベルト・サバの次に登場した詩人が、ジュゼッペ・ウンガレッティだった。

ウンベルト・サバの詩は、石、家、道、坂を見つめながら、地に足をつけながら歩いていくような詩、深呼吸をするような詩だった。次に流れついたウンガレッティの詩は、砂漠、川、墓、木立ち、夜、波のあいだを縫いながら、呆然とする空白へと私を運んでいく。

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『イタリアの詩人たち』須賀敦子|心に根を張った5人の詩人たち

 おおよそ死ほど、イタリアの芸術で重要な位置を占めるテーマは他にないだろう。この土地において、死は、単なる観念的な生の終点でもなければ、やせ細った性の貧弱などではさらにない。生の歓喜に満ち溢れればあふれるほど、イタリア人は、自分たちの足につけられた重い枷ーー死ーーを深く意識する。彼らにとって、子は生と同様に肥えた土壌であり、肉体を持った現実なのである。

ーー須賀敦子 『イタリアの詩人たち』

 

夏休みに架空のヴェネツィアに立ち寄ってから、イタリアの路地裏を歩き続けて、須賀敦子のイタリアまでやってきた。

イタリアの詩人と須賀敦子は、古く深い関係にある。須賀敦子はイタリア文学の翻訳とエッセイで名高いが、彼女が日本に帰国してはじめて寄稿した文章は、イタリア詩人についての連載、つまり本書だった。

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『須賀敦子のヴェネツィア』大竹昭子|悲しみとなぐさめの島

ヴェネツィアは、なによりもまず私をなぐさめてくれる島だった。

ーー大竹昭子 『須賀敦子ヴェネツィア

 

イルマ・ラクーザ『ラングザマー』アンリ・ドレニエ『ヴェネチア風物誌』と続けてヴェネツィアにまつわる本を読んだので、さらにもう一歩、ヴェネツィアの路地裏に迷うことにした。アンリ・ドレニエのヴェネツィアは喜びと愛に満ちていた。須賀敦子ヴェネツィアは、悲しみと追憶に満ちている。

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『ヴェネチア風物誌』アンリ・ドレニエ|妖術と魔術と幻覚の土地

まったく、ここは奇異なる美しさの漂う不思議な土地ではないか? その名を耳にしただけで、心には逸楽と憂愁の思いが湧き起こる。口にしたまえ、<ヴェネチア>と、そうすれば、月夜の静寂さのなかで砕け散るガラスのようなものと音を聞く思いがしよう……<ヴェネチア>と。それはまた陽の光を受けて引き裂ける絹の織物の響きさながら……<ヴェネチア>と。そして色という色は入り混じって、変わりやすい透明な一色となる。この地こそは、まさに妖術と魔術と幻覚の土地ではないか?

ーーアンリ・ドレニエ『ヴェネチア風物誌』

 

ヴェネツィアを訪れたことは2回ある。いずれも夏で、光と人々の喧騒に満ちたヴェネツィアが、私の記憶にあるヴェネツィアだ。

だが本当は、冬のヴェネツィア、100年前のヴェネツィア、詩人たちが描くヴェネツィアを訪れてみたい。

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『ヌメロ・ゼロ』ウンベルト・エーコ|ニュースと陰謀の融解

アメリカ人はほんとうに月に行ったのか? スタジオですっかりでっち上げたというのもあり得なくはない。月面着陸のあとの宇宙飛行士の影をよく観察すると、どこか信用しがたい。それに、湾岸戦争はほんとうに起こったのか。それとも、古いレパートリーの断片を見せられただけじゃないのか。おれたちは偽りに囲まれて生きている。

――ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』

 

ニュースと陰謀の融解

「ジャーナリズム」は「journal+ism」であり、ラテン語の「毎日の記録」「日刊の官報」という意味から派生した。

日々の事実を記録する。昨日に起きた事実と今日に起きた事実の因果関係を語る。10年前の記録を掘り起こして因果関係を調べる。これらの活動はジャーナリズムとみなされる。

では、事実かどうかわからない「曖昧な記録」を残したり、曖昧な記録から因果関係を語ったり、関係ない事実をつないで因果関係があると語ったり、事実がないところから記録をでっちあげることは? もちろんジャーナリズムではない。だからジャーナリズムを担う者と組織は「情報の信頼性」を標榜する。

「情報の信頼性」はジャーナリズムの原則である。そうでなければ、なにが事実でなにがフェイクかなにもわからなくなる。で? 実際のところは?  

ヌメロ・ゼロ (河出文庫 エ 3-1)

ヌメロ・ゼロ (河出文庫 エ 3-1)

 
ヌメロ・ゼロ

ヌメロ・ゼロ

 
 

 

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『イザベルに ある曼荼羅』アントニオ・タブッキ

死とは曲がり道なのです、死ぬことはみえなくなるだけのことなのです。

アントニオ・タブッキ『イザベルに ある曼荼羅』

後悔という不治の病

この世で生きることはあみだくじのようなもので、わたしたちはおびただしい選択をくりかえしながら、人生という不可逆の線上を走っている。

右か左か、寝るか起きるか、魚料理か肉料理か、笑うか怒るか、こんばんはかさようならか、この手を取るか取らないか。ほとんど無意識のうちに、わたしたちは息を吸うごとになにかを選び、なにかを捨てている。

岐路は目の前にあるときは岐路とわからず、通りすぎてしばらくして肩越しに振り返り、それと気づく。「あの時ああしていれば」という思いを人はを「悔恨」と呼び、アントニオ・タブッキは「帯状疱疹」と書いた。これは、「なにもかも帯状疱疹のせいだ」と書き残して死んだ男の、病と治癒の物語である。

「わたしはよく、こんな風に思うのです。帯状疱疹というのは、どこか悔恨の気持ちに似ているとね。わたしたちのなかで眠っていたものが、ある日にわかに目をさまし、わたしたちを責めさいなむ。そして、わたしたちがそれを手なずけるすべを身につけることによって、ふたたび眠りにつく。でも、けっしてわたしたちのなかから去ることはない」 アントニオ・タブッキ『レクイエム』

イザベルに: ある曼荼羅

イザベルに: ある曼荼羅

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『デカメロン』ジョヴァンニ・ボッカッチョ|死の伝染病から逃れて百物語

この世の中では、誰でもとれるだけとっておくのがよろしい、ことに女の場合はそうですよ。女は使えるあいだに、男よりも時間を有効に使わねばなりません。——ジョヴァンニ・ボッカッチョ『デカメロン』

壮大なラテンの現実逃避

 世界の終末に生き延びたとしたら、なにを語るだろうか? カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』、アンナ・カヴァン『氷』のような終末の世界、凍りついた地平線、人類のほとんどが死滅した町、かつて高層ビルだった瓦礫の山、灰色の雨が降りそそぐ空、死が隣り合わせで先のことなどなにもわからない日々で、数少ない隣人たちと、なにを語り合うだろうか。14世紀のイタリア人たちは、とびきりゆかいな恋愛物語を話し続けた。

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『ウンベルト・サバ詩集』ウンベルト・サバ|坂の上のパイプ

 このことを措いてほかには
 なにひとつ愛せず、わたしには
 なにひとつできない。
 痛みに満ちた人生で、
 これだけが逃げ道だ。

――ウンベルト・サバ「詩人 カンツォネッタ」

坂の上のパイプ

 数年ぶりにもういちどサバの詩集を読みかえしたとき、ふせんをつけたページには「悲しみ」という言葉が多いことに気がついた。須賀敦子の訳だからだろうか。それとも、先に読んだ彼女のエッセイ「トリエステの坂道」にひきよせられたか。サバの住んだ町トリエステを訪ねるこの名文は、亡き夫ペッピーノを回想するところから始まる。早々と逝ってしまった夫を思いおこす須賀敦子の言葉は、いつも静かな悲しみに満ちている。

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『他人まかせの自伝――あとづけの詩学』アントニオ・タブッキ

 運転手は親切に聞いてくれました。どちらへお連れしましょうか。ある物語から抜け出したいのです。わたしは混乱しつつ、つぶやきました。行き先はどこでもいい、物語から逃げ出す手助けをしていただければ。わたしが作りだした物語ですが、今はそこから抜け出したい。——アントニオ・タブッキ『他人まかせの自伝――あとづけの詩学』

食後酒

 ウィリアム・フォークナーが「自分の臓腑をすっかり書きこんだ」と告白したように、虚実をまぜこんだ“己”をさらけだすのが作家という生き物であるならば、作品が世に出た時点でもはや、彼らが自作について語りうることなどそうそうは残らない。

 だが、彼らは語る。それはもう性(さが)だからである。語るための原料があるならば、作家はよろこんで虚実を織り交ぜて物語をつむぎだす。かたる対象が自分の作品、あるいは自身になってもその姿勢は変わらない。だから、この「他人まかせの自伝」を映画のメイキング・フィルムのようなものだと想像してはいけない。語り騙ることを生業とする作家が「本当の舞台裏」をすんなり教えてくれるわけがないのだから。

他人まかせの自伝――あとづけの詩学

他人まかせの自伝――あとづけの詩学

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『遠い水平線』アントニオ・タブッキ

 「どうして、彼のことを知りたいのですか」
 「むこうは死んだのに、こっちは生きてるからです」

——アントニオ・タブッキ『遠い水平線』

目の中に水平線

 見知らぬ人が死んでいる。今もどこかで、近くの路地で、遠い部屋の片隅で。だが、死はふだんの生活からは切り離されていて、なかなかそのことに気づかない。生活の力はあまりに強く、死の影を容赦なくぬぐいさるからだ。
 ところが、ときどき死の引力に惹かれる人間がいる。『遠い水平線』の主人公、スピーノもそのひとりだ。彼は死体置場の番人で、他の人たちよりは死者に近い場所にいる。死者たちを「もの」として扱うことに抵抗をおぼえ、「ウンラット教授」といったユニークなあだ名をつけるなど、死者たちに親近感に近い同情を寄せている。
 だが、死者はあくまで死者、スピーノは生ける者であり、両者のあいだには越えられない溝があった。だが、死体置場に身元不明の青年の死体が送られてきたことによって、状況は一変する。スピーノは青年の身元を確認するために手をつくし、さまざまな手がかりを得ようとして深く死者の人生に足を踏み入れていく。そのいれこみぶりは周囲の人間がとまどうほど。
 「このままでは、犬死にになってしまう。二度死なせるのと同然だ」とスピーノは言う。スピーノと親しい新聞記者は彼にたずねる。「いったい、きみは何が知りたいんだ?」

遠い水平線 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

遠い水平線 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

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『木のぼり男爵』イタロ・カルヴィーノ

[ひとりぼっちの王国]
Italo Calvino Il Barone Rampante,1957.

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

 「でも木の上からだと、ずっと遠くにおしっこできるんだ!」
 「気をつけるのだ、コジモ! わしら全部の上におしっこできるものもいるのだ!」


 私が白水uブックスの存在を知って間もなかったころ、一番最初に手が伸びたのが『木のぼり男爵』だった。何がいいって、まずタイトルがいい。「生涯一度も木から降りなかった男爵の話」というあらすじも目を引いた。ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画『海の上のピアニスト』が好きだったから、「イタリア人は船にしろ木にしろ、一度上ったらかたくなに降りない美学でもあるのだろうか……」と首をひねったことを思い出す。


 奇才イタロ・カルヴィーノが描く「われわれの祖先」三部作のひとつ。舞台は18世紀イタリア。ディ・ロンドー男爵家の長男コジモがカタツムリ料理を拒否して木の上に登る、という衝撃的な書き出しから物語は始まる。彼は、木と木のあいだを移動することを覚え、枝を剪定して足場を整え、木の上にねぐらを作る。恋愛も風呂も勉強も盗賊との友情も、すべて木の上でやってのける。
 「彼は人を避けない隠遁者だった。それどころか、彼の心にあったのは人間だけだった、ともいえただろう」(p.89)とあるように、コジモはよく人と話をした。人々の相談に乗ったし、森の安全を守るために自警団を組織して指揮もした。樹上にありながら、コジモはそれなりによい「旦那」として才能を発揮したと言えるかもしれない。コジモは「樹上に設立されたる理想国家の憲法草案」なるものを書いて、「樹上の王国」を夢想した。


 だが、樹上の王国はひとりぼっちの王国だった。コジモは木があるところはどこまでも移動したが、それ以外には行けない。木の上に住む者と地上に住む者、そこには歴然とした「境界」があった。最もそれが噴出したのは、苛烈な恋人ヴィオーラとのやりとりだろう。ヴィオーラとコジモは樹上デートを繰り返すが、ヴィオーラは馬を駆って草原を疾走することを愛した。コジモは自分の領土では誰よりも自由だったが、彼女が屋敷に向かうたび樹上に「取り残される」。
 自分と他者との境界は、本書ではかなり戯化されているが、地上に住む者同士でも実はそんなに変わらないと思う。自分の世界を持つ者は、他者とのあいだにどうしても埋められない溝があることをいつか知る。

 コジモは来る日も来る日も、とねりこの木の上にいて、まるで、久しい以前から彼の心を思いわずらわせていたあるもの――<遠い>という思い、<満たしがたい>という思い、<待つことはこの人生よりもはるかに長引くかもしれない>という思いを、まるで――そのなかに読みとろうとしてでもいるかのように、草原を眺めていた。

 ユーモラスな設定に笑わされるにもかかわらず寂しい余韻を残していくのは、全編をとおして「喪失」と「孤独」がざわめいているからかもしれない。


イタロ・カルヴィーノの作品レビュー:
「宿命の交わる城」


recommend:
アレッサンドロ・バリッコ『海の上のピアニスト』…生涯、船から降りなかったピアニスト。
ライナー・チムニク『クレーン男』…世界をクレーンの上から眺めた男。


どうでもいい追記:
 [ひとりぼっちの王国]という冒頭の一言、最初に思いついたのは[木上の空論]だったのだが、「夜に言葉遊びを考えるとろくなことにならない」というじっちゃんの教えを思い出してボツにした。個人的には、ヴィオーラ女史の最強ぶりと、最後のコジモの跳躍が好きだった。夢のように消えて、後には何も残さない。ただ逸話だけが語り継がれていく。そんな人生を送れたらすてきだ。

『レクイエム』 アントニオ・タブッキ|これもまた追憶

[これもまた追憶]
Antonio Tabucchi,Recuiem,1992.

 今日は7月最後の日曜日ですね、足の悪い宝くじ売りが言った。町はからっぽ、木陰にいても40度はある。記憶のなかにしか存在しないひとに会うのには申し分のない一日だと思いますよ。


 7月最後の日曜日にはいつも『レクイエム』を開くのがここ数年のならわしになった。陽炎が立ちのぼるような暑さのなかでは、この世とあの世の境が曖昧になっていく。かつて愛した「もう会えない」人々に会いに行くにはうってつけの季節である。
 男は、うだるような蒸し暑いリスボンを彷徨する。人と会い、別れてゆく。ただこれだけの物語なのに、なぜこんなにも不可思議な魅力を放つのだろうか。

あんたは両手を広げて風景のなかを通り過ぎる夢遊病者のようなもんさ。あんたが触れるものはみんな、あんたの夢にまざっちまう、このあたしもふくめてね。

 主人公は、ごく自然に「追憶の一部」、もういなくなってしまった大事な人と会い、食事をして語らい、そしてまた別れてゆく。何がいいって、偶然に死者たちと会うのではなく、きちんと待ち合わせしているところ。石畳の小道はするりと「あちら」につながっていて、また気がつけば「こちら」に戻っているといった調子。ここに不自然さや奇妙さはほとんどない。

 主人公は、わずか1日の間に、生きている人と死んでいる人、既知の人と見知らぬ人、あわせて23人もの人々と出会う。どのエピソードも素敵だったが、「親友のタデウシュ」「灯台守」「ボーイ長」「かつての恋人」「食事相手」が特に好きだった。特に、大事な人であればあるほど、語られる言葉が少なくなるのがいい。最後の「食事相手」は名前を伏せられているが、ポルトガルをこよなく愛するタブッキが会いたい詩人といえば、思いつくのは1人しかいない。

 魂には、どんな薬もいかさまだよ、タデウシュが言った。魂は腹を満たして癒すものだ。

 なんといっても魅力的なのが、おいしそうなポルトガル料理の数々。主人公はいろいろな死者と食事を共にする。物語中には、サラブーリョやミ―ガス、フェイジョアーダなどが登場して、どれも大変おいしそうでしかたがなかった。幻覚のような世界の中で、料理の香りや味わいだけは不思議と現実的である。奇しくも「イマジネーションの世界に物質の実在感で重みをつけるのが好きだったんだな」と、主人公の親友 タデウシュは述べている。

 「あなた、魔法を信じていらっしゃるの? あなたのような方はふつう魔法など信じないものよ」


 「いつかまた」と「さよなら」、別れの言葉には、にじむような情と願いがこめられている。人生は出会いと別れの繰り返し、そして永遠のさよならで幕を閉じるが、きちんと別れを告げられた相手がこれまでどれほどいるだろうか?

 わたしはよく、こんな風に思うのです。帯状疱疹というのは、どこか悔恨の気持ちに似ているとね。わたしたちのなかで眠っていたものが、ある日にわかに目をさまし、わたしたちを責めさいなむ。そして、わたしたちがそれを手なずけるすべを身につけることによって、ふたたび眠りにつく。でも、けっしてわたしたちのなかから去ることはない。

 人とじょうずに別れるのはとても難しい。だから、主人公が「さよなら」を告げようと、もう会えない人に会いに行く素朴さに、私はある種の驚嘆を覚える。誰もが望み、そして諦めた寂しさを、タブッキはあたかもどこにでもある日常のワンシーンのように扱う。
 最後の一文までが透徹して素晴らしい。大事な人を失った寂しさには、こういうなぐさめの方が腹に効く。

 これからここに来るひとは、ぼくの追憶の一部なんです。アレンテージョ会館のボーイ長は、キューを大に置きながら、物憂げなほほえみを浮かべた。気にすることはありません、彼は言った。そうしたお話でしたら、この場所はうってつけです。この会館にしたところで、ひとつの追憶にすぎないのですから。


アントニオ・タブッキの著作レビュー:
『供述によるとペレイラは…』
『インド夜想曲』
『島とクジラと女をめぐる断片』


recommend:
フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』…「あなたは魔術師だ」とタブッキは言う。
オクタビオ・パス『オクタビオ・パス詩集』…静止する正午。


追記:
 「『レクイエム』はいい」と、とある本読みさんに勧められて、積読棚から発掘して読んだ。ちょうど暑い季節になる。もう少し暑くなって、この世とあの世の境が曖昧になったら、もう一度読んでみたいと思う。教えてくれてありがとう。
 それにしても、年を取ればとるほどタブッキが好きになっていくなあ。

『島とクジラと女をめぐる断片』アントニオ・タブッキ

[難破船のような物語の断片]
Antonio Tabucchi Donna di Porto Pim,1983.

島とクジラと女をめぐる断片

島とクジラと女をめぐる断片

火を吐く山々、風、孤独。16世紀、ここに最初に上陸したポルトガル人の1人は、アソーレス諸島についてそう書いている。



 ポルトガルをこよなく愛するイタリア人作家が書いた、果ての島にまつわる物語の断片たち。この本を「短編集」と呼んでいいのかどうか分からない。書物というよりは、砂浜に流れ着いたボトルメールに似ている気がする。
 難破船の甲板に座りながら、一面青の「無音の風景」をずっと眺めているような、不思議な読後感にとらわれた。読了してからしばらく経った時の方が印象深くなる。だから、この本の感想を書くのはとても難しい。感想は、文章ではなく印象として残る。須賀敦子さんの名訳と相まって、よけいにそう思うのかもしれない。


「難破、船の残骸、海路、および遠さについて」

 「アソーレス諸島のあたりを徘徊する小さな青いクジラ」は、外国から来た作家の男と恋人の女が、船の上で会話をする話。小さな「島」だと思っていたものが、実は青い小さなクジラだと知った時の驚き。「女が、そっと、ほんとうにそっとたずねた」「女が少し笑った」など、映画のようなワンシーンの切り取り方がいい。
 いくつかの断片を集めた「その他の断片」で最も気に入ったフレーズを下に引用してみよう。

 ほっそりした、きゃしゃな船体は最高級の材料で造られている。これまでかなり航海の経験をつんでいるにちがいない。偶然、この港にやって来た。旅はすべて偶然だ。船の名前は<<紺碧のひびき>>。


「クジラおよび捕鯨手について」

 クジラにまつわる物語。当然のことながら、『白鯨』を思い出す(実際、本文の中で引用されている)。「捕鯨行」では、死にかけのクジラの体を沖にまでひっぱっていく船の様子が印象的だった。大きい体に見合うだけ、死はゆっくりと訪れる。「眠りこけて、ただの黒いかたまりに成りはてた不動の肉体を乗せた船は、海面を幽霊船みたいに滑って行く」。
 本書の中で一番の断片は、「ピム港の女」だと思う。居酒屋の歌い手が語る、女の物語。ウツボ釣りの時に歌う「魚を呼びよせる言葉のない歌」の下りが気に入った。居酒屋の歌い手がかつてウツボのために歌った歌は、すでに失われている。何か大事なものを失った人特有の「陽気な諦め」が、作品全体を青く静かな印象にひたらせている。


 何も考えずに、ゆらりぷかぷかと文字の海を浮かんでいたい1冊。何気に、クジラの目線から人間を眺める「あとがき」の趣味がいい。
 クジラから見れば、「人間ほどせわしなく、悲しそうな生き物はいない」。そうかもしれない。


アントニオ・タブッキの著作レビュー:
『供述によるとペレイラは…』
『インド夜想曲』


recommend:
フェルナンンド・ペソア『ポルトガルの海』…タブッキが愛した「異名」詩人。
メルヴィル『白鯨』…世にも珍しい鯨学。
五十嵐大介『海獣の子供』…クジラの「ソング」について。

『カフカの父親』トンマーゾ・ランドルフィ

[エキセントリックな想像力]
Tommaso Landolfi Il Babbo Di Kafka E Altri Racconti ,1930-46.


誰も知らない心の内や、事件の顛末を、ひそりと、奇想天外に暴いて見せる。イタリアのエキセントリックな作家が、想像力を躍らせた短編集である。

『カフカの父親』と聞いたら、カフカ好きは手をのばさずにいられない。しかも、『ゴーゴリの妻』も出てくるらしい。と思って読んでみたら、カフカのお父さんは『変身』に出てくるような巨大虫で、ゴーゴリの妻はゴム人形だった。人間ではなかった。なんてこった。

かなりシュールでエキセントリックな雰囲気の作品が多い。なんとなくロシア文学ぽい雰囲気だと思ったら、ランドルフィはロシア文学、ゴーゴリなどの翻訳やらをやっている人だった。なるほど。シュールで奇妙、それでどこか突き放してくるような雰囲気だ。

ランドルフィは、狂人を書かせたらなかなかすごい。「文学の冒険」シリーズは、あとからじわじわとくる作品が多い。ポー、カフカ、ゴーゴリ好きならきっと好き。

以下、各編の感想。気に入ったものには*。


「マリーア・ジュゼッパ」
いも女中をいじめる偏屈老人の手記。いじめて泣かせてののしって、しかもちっとも悪びれていないこのじいさん。ツンデレ?とも違うけど、愛着と苛立ちの葛藤みたいなのは分かる気がする。にしてもやり方ってものがあるような・・・似たような変人像は他の短編にも出てくる。ランドルフィの似姿なのかなと。

「手」
ねずみが犬に殺される。変人が何をもって奇怪な行動をとるか?の舞台裏みたいな話。この作品もそうだが、狂人の心のうちをのぞく話はけっこう多い。

「無限大体系対話」
でたらめな言語で詩を書いてしまったら?誰も知らない言語で詩を書いてしまった詩人が、評論家に自分の作品を認めてもらおうとする。芸術は誰のものか、自分は芸術家であると自称すれば芸術家であるか?ボルヘス的だけど、カフカ的でもある。

「狼男のおはなし」
月に我慢がならないので、月をさらって煙突で煤だらけにしてしまおう。これも狂人系?狂人と理性は、ランドルフィのテーマぽいが。

「剣」
なんでも切り裂ける、神話のような剣を手に入れた。圧倒的な力を手に入れた人間がすること。臆病と自負心が他者を傷つける、この激情描写がすさまじい。「この世でもっともいとおしいものを破壊したにすぎない」。

「泥棒」
泥棒が入り込んだ家の主人は、狂人だった。なんだかユーモラス。そんな馬鹿なと思う展開なのに、こうなるとしか思えない妙な納得もある。

「カフカの父親」
表題作。巨大蜘蛛が出てきたが、その顔はカフカの父親のものだった。内面から迫る恐怖がふつりと切れて、暴力となる。『変身』を思わせるけど、こちらはあっという間に決着がついてしまう。カフカとは違う意味でぷっつんしている雰囲気。

「『通俗歌唱法教本』より」
声には、重さも色も形もあるらしい。架空の本からの抜粋。こう書くとファンタジーぽいが、声の重力で普通に人が死ぬらしいので、やっぱり不条理。

「ゴーゴリの妻」
ゴーゴリの妻はゴム人形だった。微妙にゴーゴリの文学史(書き途中の作品を燃やした)などと絡めてあっておもしろい。変態性癖がばりばりに出ていて、なんかもう勝手にしてくれと言いたい。だけど、ゴーゴリの最後の決断と悲哀は、迫真だった。褒め言葉として、「クレイジー」を送りたい一作。

「幽霊」
幽霊ごっこで主人の伯爵をびびらせる輩が住む、いかれた館に忍び込んだ泥棒の目撃譚。銃弾が日常的に飛び交う屋敷ってどんなだ。ポーの「アッシャー家の崩壊」とかを思わせる。

「マリーア・ジュゼッパのほんとうの話」
これだけエッセイ的。架空の物語としての「マリーア・ジュゼッパ」、本当のところはどうだったか?現実が物語を追いかけたことの実例として。大丈夫かなあ本当に、この人。

「ころころ」
殺人者が、自殺の工作をするために、10分間えんえんと悩み続ける話。脱線しまくる精神的回路(思考ではない)と時間との戦い。ぐだぐだ考えずにとっとと行動すればよかったのに、貴重な時間を無駄にした。人生ってこういうものですよね、という皮肉がきいている。

「キス」
誰もいない暗闇で、キスをされる。より重く、より深く。そして命はけずられる。・・・追い詰められる心理描写がすごい。狂人を書くのが本当にうまい。

「日蝕」
日蝕を見ながら、とてつもなく髪の長い女性に裸になってくれと頼む。シュルレアリズムのような、奇妙な絵画のような印象を放つ。意味不明なのに、強烈にまぶたの裏に残る。彼女が好きか?イエスでもあり、ノーでもある。

「騒ぎ立てる言葉たち」
言葉が、自分の意味がいやなので、交換したいと騒ぎ立てる。ユーモラスなナンセンスさ。やりイカの意味になればいい、てのは名台詞。



recommend:
>ゴーゴリ『外套・鼻』…この時代に、なんてものを書くんだこの作家は。
>ポー『アッシャー家の崩壊』『黒猫』…ポーの奇妙な引力がたまらない。
カフカ『変身』…巨大な虫になっているのを発見した。