キリキリソテーにうってつけの日|海外文学録

海外文学/世界文学/ガイブンの書評と感想ブログ。

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『菜食主義者』ハン・ガン

ふとこの世で生きたことがない、という気がして、彼女は面食らった。事実だった。彼女は生きたことがなかった。記憶できる幼い頃から、ただ耐えてきただけだった。 −−ハン・ガン『菜食主義者』 境界の向こうに行った人 人間という業の深い生物にうまれ、不幸…

『はるかな星』ロベルト・ボラーニョ

誰にも見られずに落ちていく星はあるのだろうか。 −−ロベルト・ボラーニョ『はるかな星』 怪物の詩人 「誰にも見られずに落ちていく星はあるのだろうか」。フォークナーの詩から始まる『はるかな星』は、チリの詩人たちにまつわる物語だ。チリは「石をどけれ…

『火を熾す』ジャック・ロンドン

犬の姿を見て、途方もない考えが浮かんだ。吹雪に閉じ込められた男が、仔牛を殺して死体のなかにもぐり込んで助かったという話を男は覚えていた。自分も犬を殺して、麻痺がひくまでその暖かい体に両手をうずめていればいい。そうすればまた火が熾せる。 ——ジ…

『冬の物語』イサク・ディネセン

ペーターはなんとなく察しをつけた。不滅という言葉は、こういう状態のことを言うのだろう。もう、これから先も、過去のことも、考えるのをやめた。この時間だけが彼をとらえた。ーーイサク・ディネセン『冬の物語』「ペーターとローサ」 世界にかすかな爪痕…

『最初の悪い男』ミランダ・ジュライ

効果は、一応はあった。ただし"アブラカタブラ"と唱えたらウサギが消えました、じゃん! というような効き方ではなかった。"アブラカタブラ"を何十億回、何万年もかかって唱えつづけているうちにウサギが老衰で詩に、それでもまだ唱えつづけているうちにウサ…

『移動祝祭日』ヘミングウェイ

「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」 ーーアーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』 どこまでもついてくる祝祭 世の中には…

『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ

「信じられるか、この世界? 愛するしかないよな」−−リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』 人類全体の世話人 誰かを信じるには、それなりの時間と勇気を必要とする。それに比べて、不信感を抱くのはもっとずっとお手軽だ。疑いを抱くことも、自分を守るも…

『あなたを選んでくれるもの』ミランダ・ジュライ

もし自分と似たような人たちとだけ交流すれば、このいやらしさも消えて、また元どおりの気分になれるのだろう。でもそれも何かちがう気がした。結局わたしは、いやらしくたって仕方がないしそれでいいんだ、と思うことに決めた。だってわたしは本当にちょっ…

『アメリカ大陸のナチ文学』ロベルト・ボラーニョ

その教訓は明白だ。民主主義の息の根を止めなければならない。なぜナチはあれほど長生きなのか。たとえばヘスだが、自殺しなければ、百歳まで生きただろう。何が彼らをあれほど生きながらえさせるのか。何が彼らを不死に近い存在にしてしまうのか。流された…

『八月の光』ウィリアム・フォークナー

彼はそれを考えて静かな驚きに打たれた――延びてゆくのだ、数知れぬ明日、よくなじんだ毎日が、延びつづいてゆくのだ、というのも、いままでにあったものとこれから来るはずのものは同じだからだ、次に来る明日とすでにあった明日とはたぶん同じものだろうか…

『カンポ・サント』W.G.ゼーバルト

写真が人の胸をあれほど衝くのは、そこからときおり不思議な、なにか彼岸的なものが吹き寄せてくるからである。——W.G.ゼーバルト『カンポ・サント』 傍らにいるのだ、死者は ゼーバルトは、どの町を歩いていてもいずれ第二次世界大戦の瓦礫に漂着する、希有…

『ワインズバーグ・オハイオ』シャーウッド・アンダソン

自分以外のものの声が、人生には限界がある、とささやきかけてくる。自分自身と自分の将来について自信に溢れていたのが、あまり自信のない状態に変る。もしそれが想像力ゆたかな青年ならば、一つの扉が無理矢理こじあけられ、生まれてはじめて眼にする世界…

『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライ

あなたは悪くない。もしかしたらそれは、わたしがずっと誰かに言ってあげたかった、そして誰かに言ってほしかった、たった一つの言葉なのかもしれなかった。 ミランダ・ジュライ「共同パティオ」 孤独の黒歴史 なぜわたしはわたしの人生の主人公なのに、こう…

『別荘』ホセ・ドノソ

「私たちはベントゥーラ一族なのよ、ウェンセスラオ、唯一確かなのは外見だけ、よく覚えておきなさい」——ホセ・ドノソ『別荘』 分厚いベールをかける黄金の白痴 ドノソはわたしにとって「液体作家」である。読んだ後になぜか液体じみた印象が離れない。きち…

『火葬人』ラジスラフ・フクス

「あいつはどうかしている。いつもこうなんだ。大虐殺の現場に連れていかれるとでも思っているんだ……」 ——ラジスラフ・フクス『火葬人』 ホロコーストという“慈善” 心電図が停止しながらも生きている人間は、じつはけっこういるのかもしれない。心臓は動いて…

『崩れゆく絆』チヌア・アチェベ

「白人ときたら、まったくずる賢いやつらだよ。宗教をひっさげて、静かに、平和的にやって来た。われわれはあのまぬけっぷりを見ておもしろがり、ここにいるのを許可してやった。しかしいまじゃ、同胞をかっさらわれ、もはやひとつに結束できない。白人はわ…

『河岸忘日抄』堀江敏幸

遭難の作法 ふと、彼は思う。自分は、まだ待機していたい。待っていたい。だが、なにを待つのか?——堀江敏幸『河岸忘日抄』 霧の深い夜には、たいそう派手な失恋をしてなんの知らせもよこさずに遠い異国へふつりと消えた、気狂いの友人を思い出す。失踪した…

Patience (After Sebald)、あるいはW.G.ゼーバルト『土星の環 イギリス行脚』

2001年、W.G.ゼーバルトは車の運転中に心筋梗塞をおこし、イングランド東部の道路で気を失ったまま横転した。57歳、早すぎる死だった。つねに抑制した筆致で、アクセルを踏むこともブレーキを踏むこともなく、記憶と記録を地すべりし続けた作家が、加速する…

『北欧神話と伝説』ヴィルヘルム・グレンベック

いまやスルトはただひとり戦場に立っている。彼は炬火を大地の上に投げ、こうして全世界は火炎に包まれて燃え上がるのである。——ヴィルヘルム・グレンベック『北欧神話と伝説』 血まみれの世界よ 世界の中央には巨大な空隙があって、その北には氷に閉ざされ…

『ヘンリー四世』ウィリアム・シェイクスピア

名誉ってなんだ? ことばだ。その名誉ってことばになにがある? その名誉ってやつに? 空気だ。結構な損得勘定じゃないか!——ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー四世』 ごろつき紳士の饗宴 燃えよ退廃の燈火、愛すべき百貫でぶ、王子ハリーつきの食用豚、…

『ブリキの太鼓』ギュンター・グラス

なぜってオスカルよ、おまえだけがまことお伽のようで、おまえは過剰なほど渦巻模様にいろどられた角をもつ孤独な獣ではないか。——ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』 誰かの死に加担する ブリキの太鼓の音は、機関銃の銃声に似ている。胸を打つのではなく…

『滅亡』ノサック

わたしたちは「目覚めるのだ。これはただの悪夢ではないか」とだれかが呼びかけてくれるのを期待していたのだ。しかしわたしたちはその願いを口に出すことはできなかった。悪霊がわたしたちの口を窒息しそうになるほど塞いでいたからだ。——ノサック『滅亡』 …

『無声映画のシーン』フリオ・リャマサーレス

今では雪になっている母に。——フリオ・リャマサーレス『無声映画のシーン』 架空の写真 わたしにとってリャマサーレスは“追憶の作家”である。かつてリャマサーレスは、すべてを食らい尽くす時間と記憶の漂白を、廃村に降る『黄色い雨』に例えた。 記憶は、お…

『夜毎に石の橋の下で』レオ・ペルッツ

一同が静まったところで高徳のラビは告げた。汝らのうちに、姦通の罪を負って生きる女、呪われた一族、主によって滅ぼされた一族の子がいる。罪人に告ぐ、進み出で己が罪を告白し、主の裁きを受けるがよい。――レオ・ペルッツ『夜毎に石の橋の下で』 プラハの…

『少年十字軍』マルセル・シュウォッブ

いつも同じ黄金の面をわれらに向けるあの月も、おそらく暗く残忍な別の面をもつのであろう。……けれども予はもはやこの世の表面など見たくない。暗いものに目を向けたいのだ。――マルセル・シュウォッブ「黄金仮面の王」 極彩色の幻影 思い出したのはクリムト…

『ウンベルト・サバ詩集』ウンベルト・サバ

このことを措いてほかには なにひとつ愛せず、わたしには なにひとつできない。 痛みに満ちた人生で、 これだけが逃げ道だ。――ウンベルト・サバ「詩人 カンツォネッタ」 坂の上のパイプ 数年ぶりにもういちどサバの詩集を読みかえしたとき、ふせんをつけたペ…

『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』ヨシフ・ブロツキ―

総じて、愛というのは光速で現れ、そして別離は常に音速でやってくる。 ——ヨシフ・ブロツキ―『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』 追憶の水路 迷子になりたい、行方不明になってしまいたいという思いがいつからめばえたのか、もう今となっては思い出せない。自分を…

『リチャード二世』ウィリアム・シェイクスピア

私の栄誉、私の権力はあんたの自由になっても、 私の悲しみはそうはいかぬ。私はまだ私の悲しみの王だ。——ウィリアム・シェイクスピア『リチャード二世』 悲しみの王 リチャード二世は、不思議な印象を残す王だ。シェイクスピアの史劇における王は、廃位の運…

『灯台守の話』ジャネット・ウィンターソン

話せば長い物語だ。そして世の物語がみなそうであるように、この物語には終わりがない。むろん結末はある——物語とはそういうものだ——けれど、結末を迎えたあとも、この物語はずっと続いた。物語とはそういうものだから。——ジャネット・ウィンターソン『灯台…

『さりながら』フィリップ・フォレスト

一茶はすでに世界についてすべてを知っていた。その悪意、その無尽蔵の美しさ。——フィリップ・フォレスト 喪失の水盤 この切実さはなにごとだろう。フォレストの文章を読みすすめるごと、そう思わずにはいられない。 日本の作家、俳句、写真家、都市について…