ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『彼方なる歌に耳を澄ませよ』アリステア・マクラウド

山々はわれらをわかち、茫漠たる海はわれらを隔てる――それでもなお血は強し、心はハイランド。 ――アリステア・マクラウド『彼方なる歌に耳を澄ませよ』

血は水よりも濃い

スコットランド人に会ったら、まず言われること。イングランドとスコットランドを絶対に言いまちがえてはいけない。料理がまずいのはイングランドであって、スコットランドを一緒にしないでほしい。ハギスとウィスキーとバグパイプは最高だ。そして、イングランドとスコットランドを絶対に言いまちがえてはいけない。

日本人にとって「英国」という国はロンドンやイングランドのイメージとつながりがちだが、ブリテン島の北半分はスコットランドが占めている。スコットランドは英国連邦内にとどまりながらほぼ独立国家であり*1、そのアイデンティティと誇り高さは上記の言葉にも現れている。

海を数千キロも隔てたカナダのケープ・ブレトン島に住むアリステア・マクラウドの祖先は、こういう土地から来た人々だった。6代たってもなお、彼らはゲール語で話し、ゲール語の歌を歌い、バグパイプのCDを鳴らし、フィドルを弾きウィスキーをかっくらいながら踊る。それでもなお血は強し、心はハイランド。これは、血と塩と氷でできた一族の物語である。

彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)

彼方なる歌に耳を澄ませよ (新潮クレスト・ブックス)

*1:2014年は独立投票で世界中の注目を集めた。

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50人が選んだ、2500円以下のオススメ海外文学。「はじめての海外文学」フェア

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「はじめての海外文学」フェアが、全国14書店で1月26日頃(給料日直後の月曜日、覚えやすいですね)からじわじわ始まるようですよ。

どんなフェア?

「海外文学にほんのり興味はあるけど、正直どれから始めてみたらいいのか分からない」という人のために、海外文学ファン(翻訳者、書店員、出版社の中の人、編集者など)50人がそれぞれ「初めて海外文学を読むならぴったりだと思う1冊」を選び、わっふるわっふるなコメントをつけてオススメするフェア。

正式名称は「50人に聞きました!老いも若きもまずはこの1冊から はじめての海外文学」フェア。ハッシュタグは #はじめての海外文学フェア
発起人は丸善 津田沼店の書店員、酒井七海さん(@onakaitaichan)。フェアが始まった経緯はこちら。

どんな本があるの?

  • 50人の選書人が選んだ1冊=合計50冊(わたしも1冊、選んでいます)
  • 値段は最高2500円。企画者による、お財布に優しい設計。
  • ハードカバーと文庫、両方を取り揃え。
  • 50冊すべてに、選書人によるコメントつき。
  • フェア開催書店で、限定の小冊子を配布。


 

開催書店リスト

東京都、神奈川県、千葉県、福島県、愛知県、大阪府、福岡県の14書店で開催。一部の書店ではすでに始まっている。まだ確定していない店舗もあるらしい(まだ増える可能性あり)。

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『HHhH プラハ、1942年』ローラン・ビネ

 いったい何を根拠に、ある人物が、ある物語の主役であると判断するのだろうか? その人物に費やされたページ数によって? ——ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』

自分語りとアンチ歴史スパイ小説

 「事実かどうかを1次情報まで戻って確認せよ、重要なことから書け、つねに自分とすべてを疑え、客観性を忘れるな」。書く者としての心構えを、ボスや教授からくりかえしくりかえし聞かされてきた。

 だが、客観的に書くとはなんだろうか? それは人類に可能なのか?

 フランスの若く野心的な小説家は、この問いについての物語で答えようとした。ラインハルト・ハイドリヒ——第三帝国でもっとも危険な男、プラハの死刑執行人、虐殺者、金髪の野獣、山羊、ユダヤ人ジーズ、鉄の心臓を持つ男、地獄の業火が想像した最悪のもの、女の子宮から生まれたもっとも残虐な男、<HHhH>——Himmlers Hirn heibt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)という通り名を持つ男。

HHhH (プラハ、1942年)

HHhH (プラハ、1942年)

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『別荘』ホセ・ドノソ|分厚いベールをかける黄金の白痴

 「私たちはベントゥーラ一族なのよ、ウェンセスラオ、唯一確かなのは外見だけ、よく覚えておきなさい」——ホセ・ドノソ『別荘』

分厚いベールをかける黄金の白痴

 ドノソはわたしにとって「液体作家」である。読んだ後になぜか液体じみた印象が離れない。きちがい冥府小説『夜のみだらな鳥』は、どろどろの黒いタールの上に、蛍光色の砂糖菓子人形をぶちまけたような印象。『別荘』は赤緑黄のペンキ缶を壁に投げつけ、金銀の粉をふりかけて血みどろメレンゲをあしらった印象だ。

 端的にいえば、いかれている。頭のおかしい人々がロココにほほえみながら舞踏会を踊り、わたしたち読者に「あなたも踊りましょう?」と優雅に指を絡めてくるような作品をドノソは描く。圧倒的な理性の敗北、幼児退化のばぶばぶ、無知蒙昧のグロテスク、なのにそれでも西洋絵画のように美しいのだからやっていられない。

別荘 (ロス・クラシコス)

別荘 (ロス・クラシコス)

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なぜ世界文学は売れないのか? もうすぐ絶滅するという海外文学について

世界文学が読まれない、売れない、翻訳できない

 『絶望名人カフカの人生論』の著者、頭木弘樹さん(@kafka_kashiragi)が「海外文学の翻訳が売れないから、翻訳できなくなってきている」というつぶやきが3000RTを超えた。
https://twitter.com/kafka_kashiragi/status/534536316197679104:title#怖ろしい話を聞いた…。海外文学の翻訳は、初版1500部とか、初版印税ナシが普通になってきているという。増刷はなかなかされないだろうから、初版印税ナシだと、実質、無報酬に。初版1500部でも、生活はとてもできない。これでは翻訳をする人はいなくなってしまう。したくても生活できない。

 「印税と翻訳料の違い」(わたしの周囲は若手が多いためか無報酬の話が多く、あっても微々たるものだろうが)や「業界全体の話なのかどうか」「そもそも本当の話なのか」など考えることはあるが、なにがすごいかといえば、このつぶやきが3000RTを超えたということである。

 3000といえばおなじみのフレーズ「海外文学のコア読者は3000人」の3000だ。3000人のうち全員がTwitterをやっているはずはない(特に文学おじさんはやらなさそう)から、わたしの周囲以外でこのつぶやきが拡散されたということは、コア読者以外がなんとなく興味を持ってRTしたと仮定してよさそうだ。

海外文学が消滅する!? - Togetter
※「海外文学の翻訳」関連のつぶやきは6ツイートある。

海外文学にほんのり興味がある人はそれなりにいる

 くしくも昨日「ガイブン初心者にオススメする海外文学・文庫編」という記事を書いたところ、2000PV・70ブクマ超えを記録した。この記事を書いていて思った、そしてブクマのコメントなどを読んで感じたのは「海外文学に興味がほんのりある人は意外にいるんじゃないの?」ということだ。ためしに書いてみたら、やっぱりそれなりにいる気がする。
ガイブン初心者にオススメする海外文学・文庫編 - ボヘミアの海岸線

 そもそもこの記事は、「リクエストをもらったらそれっぽい海外文学を1冊オススメする」企画を開催したとき、リクエストをくれた人たちのうち半数ぐらいが「ふだんはあまり海外文学を読まない人」だったために書いた。わたしのTwitterアカウントはほぼ海外文学ネタと2.5次元の幻覚しかたれ流していないにもかかわらず、なぜか2000フォロワー以上いて、ここ1年はとくにフォロワーの増えるスピードが加速している。

 また、ノルウェー・ブック・クラブがまとめた「世界最高の小説100」リストは2000近くのブックマークがついている。リストはブクマをかせぎやすく、だいたい「あとで読む」タグがついてあとで読まれないものだが、それにしてもこのブクマ数はわたしにとっては驚きだった。
サービス終了のお知らせ - NAVER まとめ
 人々は「海外文学」を読みたいわけじゃない。「いい作品」「読んでよかったと思える作品」「最高の作品」を求めているのだ。物語に貪欲な人は、フォーマットは問わない(好き嫌いや相性はあるにせよ)。映画でも、アニメでも、ゲームでも、漫画でも、アマチュアがつくった動画でも、文学でも。残念なことに、文学はこの中ではもっとも敗北している。海外文学はもはや、表マーケットで経済活動を続けるか、アマチュアや海賊版翻訳に頼る裏マーケットになるか、という選択肢を突きつけられつつあるとすら思っている。

 本記事は「表マーケットでの経済活動」にポイントをしぼって話を進める。つまり問いはシンプルだ。「なぜ海外文学は売れないのか?」「なぜ海外文学を買わないのか?」

 なお、わたしは仕事上では文学にまったく縁がない分野に生息しているため、これはあくまで外部から見たうえでの話である(ただコンテンツ畑なので、コンテンツのシェア獲得とマーケティング、課金は永遠のテーマだ)。ガイブン業界の慣習やしがらみは抜きにして、話を進めることをご了承いただきたい。

なぜ海外文学は売れないのか?


 なぜ海外文学は売れないのか? 答えは単純で「既存マーケットでは経済活動を維持するのに十分ではない」、つまり「新規マーケットをじゅうぶんに獲得できていない」からだ。

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ガイブン初心者にオススメする海外文学・文庫編

秋の夜長に「読みたい本の雰囲気を伝えてもらったら、それっぽい海外文学をおススメする」企画をTwitterでやってみた。
「あまり海外小説を読まないけれど興味はある」人たちからのリクエスト、「こういう雰囲気の本を求めている人がいる」という発見があって、とても楽しかった。


というわけで、海外文学/世界文学にほんのり興味があるけれど、あまり読んだことがない人たちに紹介できる「オススメの海外文学・文庫編」をつくってみた。ちょっとでも興味がある人たちがもっと増えてくれればうれしいし、出版社だって売り上げがあがれば良い作品をもりもり出してくれるにちがいない。ノーモア絶版。『夜みだ』はまだですか。


今回のリストは「早い・安い・うまい」で選んだ。

  • すぐに手に入る、絶版でない
  • 文庫本で安い
  • 訳がわりと新しい、読みやすい
  • 長すぎない
  • 本ブログで☆405をつけた、わたしが好きな本


 

(たぶん)世界一かっこいい家の崩壊

黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集? ゴシック編 (新潮文庫)

黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集? ゴシック編 (新潮文庫)

モルグ街の殺人・黄金虫 ポー短編集? ミステリ編 (新潮文庫)

モルグ街の殺人・黄金虫 ポー短編集? ミステリ編 (新潮文庫)

アメリカ文学。世界初のミステリと言われる「モルグ街の殺人」は「そのオチかよ!!」とつっこむところまでがお楽しみ。ぞくぞくする映像美でいえばダントツで「アッシャー家の崩壊」。ラストですばらしい崩壊ぶりとカタストロフィを味わえる。もはや意味がわかんないけどすっごく格好いい。表紙まんまの世界観なので、表紙が好きなら買って間違いない。

  • ストーリー性:☆☆☆☆ 日本語の読みやすさ:☆☆☆ 明るさ:☆☆ ゴシック度:☆☆☆☆☆
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『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー|命の火を運ぶ

 この物語の結末をおれにいわないでくれ。 ——コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

命の火を運ぶ

 人類絶滅まであと少し。未来は来ない。

 黒こげた死体の薪に命の火をくべて、血と夜の雫でできた宝石を、頭蓋骨の鍋で煮たような小説だ。なぜ、これほど極限まで振り切れた人間のおぞましさと美しさ、腐臭と愛が、ひとつの世界に存在できるのだろう。

ザ・ロード

ザ・ロード

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

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『火葬人』ラジスラフ・フクス |ホロコーストという"慈善"

 「あいつはどうかしている。いつもこうなんだ。大虐殺の現場に連れていかれるとでも思っているんだ……」 ——ラジスラフ・フクス『火葬人』

ホロコーストという“慈善”

 心電図が停止しながらも生きている人間は、じつはけっこういるのかもしれない。心臓は動いているし、呼吸も排泄もするし、仕事や社交だってお手のものだが、心がまったいら。好き嫌いといった心のでこぼこを持ち合わせていないから、どんな枠組みにでもスライムのようにするりとはまってみせる。だからおうおうにして彼らは、きわめて常識があって模範的な人間であることが多い。

 普通であることを誇りにし、それを他者にも求める人間には気をつけるがいい。実在可能な哲学的ゾンビは模範的で、社会が求める“普通”で“善良”な人間の顔をしている。

 「この世界には、平和、正義、そして幸せがないとね」

火葬人 (東欧の想像力)

火葬人 (東欧の想像力)

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『氷』アンナ・カヴァン|愛の絶対零度

 今ではもう私たちのどちらかが犠牲者なのか判然としない。たぶん互いが互いの犠牲者なのだろう。 —ーアンナ・カヴァン『氷』

愛の絶対零度

 これぞ唯一無二。手の上に、虹色にかがやく絶対零度の氷塊がある。この氷塊が、わずか数百枚のページでできていることが脅威的だ。世界も魂も人間関係も愛も、なにもかもが氷点下なのに、それでも温もりを求めて絶叫する。壮絶である。人間とはそう簡単に絶望できるものではなく、むしろ絶望の包囲をかいくぐり、針の穴のような希望を渇望する生き物なのだと思い知る。

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

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『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト

 祖父はようやく口を開いた。「分かるだろう、こういう瞬間があるんだ」
 「どんな瞬間?」
 「誰にも話さずに胸にしまっておく瞬間だよ」
 ——テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』

トラの嫁と、不死身の男

 まずはわたしの話からはじめよう。曾祖父が曾祖母と一緒に住みはじめたとき、曾祖母にはすでに子供——わたしの祖父がいた。地元の名士であり信頼の厚い弁護士であった曾祖父が、生涯いちども掃除をせず風呂に数年に1回しか入らず、子供を餓死させかけた野生の曾祖母を養っていたのか、子供の父親が誰なのか、誰も知らなかった。さまざまな憶測が飛びかった。子供の父親は敵国の兵士だったとか、子供の父親と弁護士先生が親友だから引き取ったとか、政治取引の犠牲になったのだとか。社会的に認められた男が籍もいれず、人間よりは獣に近い女とその連れ子を育てることは尋常ではない。祖父はなにかを、あるいはすべてを知っていたようだった。しかし彼はあっぱれに逃げきり、すべてを墓の下に持っていった。生きているわれわれには、物語と伝説だけが残った。

 良いものも悪いものも、人生で極端なことに困惑すると、人々はまず迷信にその意味を求め、ばらばらの出来事をつなぎ合わせることで何が起きているのか理解しようとする、ということも学んだ。どれほど秘密が重大で、きっぱりした沈黙が不可欠でも、打ち明けたい気持ちを持った人は必ずいるのだし、解き放たれた秘密はとんでもない力になるのだと学んだ。

タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)

タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)

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『デカメロン』ジョヴァンニ・ボッカッチョ|死の伝染病から逃れて百物語

この世の中では、誰でもとれるだけとっておくのがよろしい、ことに女の場合はそうですよ。女は使えるあいだに、男よりも時間を有効に使わねばなりません。——ジョヴァンニ・ボッカッチョ『デカメロン』

壮大なラテンの現実逃避

 世界の終末に生き延びたとしたら、なにを語るだろうか? カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』、アンナ・カヴァン『氷』のような終末の世界、凍りついた地平線、人類のほとんどが死滅した町、かつて高層ビルだった瓦礫の山、灰色の雨が降りそそぐ空、死が隣り合わせで先のことなどなにもわからない日々で、数少ない隣人たちと、なにを語り合うだろうか。14世紀のイタリア人たちは、とびきりゆかいな恋愛物語を話し続けた。

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『カンタベリー物語』ジェフリー・チョーサー

 「この盗っ人やろう、わたしを殺しやがったな。わたしの地所をとろうと思ったんだろう。でも死ぬ前に、おまえと接吻したいものだ」——ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』

中世英国バラエティ番組

 いつの時代どの土地であっても、ゆかいな物語は人々の心を引き寄せるもの、そして見知らぬ人どうしの心をかよわせる潤滑油となる。

 時は中世イングランド、カンタベリー大聖堂へお参りする30人の巡礼者たちが、旅の退屈をまぎらわせるためにそれぞれ自分が知る中でもっともゆかいな話を披露する。おもしろい話をした人にはごちそうを、つまらない話をした人は全員の旅費を負担するーー中世イングランド版バラエティ番組とでもいったところだ。

カンタベリー物語 (角川文庫 赤 347-1)

カンタベリー物語 (角川文庫 赤 347-1)

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海外文学読みにおすすめする西洋絵画

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 アントニオ・タブッキ『レクイエム』に、登場人物がリスボンの美術館でヒエロニムス・ボッシュ『聖アントニヌスの誘惑』を眺めるシーンがある。はじめて本書を読んだとき、ボッシュも『聖アントニヌスの誘惑』も知らなかったわたしは、これほどまでに登場人物を惹きつけてやまぬ美術とはいかほどのものなのか、想像することも難しかった。

 そしてとうとう、本物を見てきた。本物はわたしが想像していたよりずっと小さかったが、取り憑かれたようにみいってしまう平面の魔物だった。なんという脳髄の快楽。そしてわたしは思ったのだった、ヨーロッパの文学を読むなら、それを育んできた大伽藍である西洋絵画のことを知れば、もっと楽しめるのではないかと。

 その予感は当たっていて、新しい小説を読んでいるときのように楽しい(わたしにとってこれは最高の褒め言葉である)。この1か月に読んだ本のうち、おもしろかった本を紹介する。

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『死都ブリュージュ』ジョルジュ・ローデンバック|町と自分と彼女の区別がつかない

 彼女は彼にとって、生きうつしの、明確な姿をした思い出だった。 ——ジョルジュ・ローデンバック『死都ブリュージュ』

町と自分と彼女の区別がつかない

 ベルギーの画家フェルナン・クノップフによる『見捨てられた町』*1を見たとき、なんて幻想文学の表紙にうってつけの絵だろうと思った。水際は建物にまで侵食し、すでにこの町は空っぽである。時計の針はとまっている。鳥のはばたきひとつ、風のうなりさえ聞こえない。

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 この見捨てられた町にはモデルがある。ベルギーでかつて栄えた海運都市、ブリュージュ。13世紀ごろには海運のためにヴェネツィアなみの財力と人口を誇ったが、15世紀ごろに廃れて衰退した。さて現在、世界にはふたつのブリュージュがある。ひとつは、衰退から復活し、明るい観光都市となったブリュージュ。もうひとつは、衰退の幻影を引き延ばし続けた架空のブリュージュ。画家が描いたのは後者、ローデンバックが構築した小説世界が編んだ幻影の町だった。画家は現地にはいっさい足を向けず、幼少の記憶と『死都ブリュージュ』から想起するイメージだけをたよりに、存在するが存在しない、幻影の町を描いた。

死都ブリュージュ (岩波文庫)

死都ブリュージュ (岩波文庫)

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『崩れゆく絆』チヌア・アチェベ

「白人ときたら、まったくずる賢いやつらだよ。宗教をひっさげて、静かに、平和的にやって来た。われわれはあのまぬけっぷりを見ておもしろがり、ここにいるのを許可してやった。しかしいまじゃ、同胞をかっさらわれ、もはやひとつに結束できない。白人はわれわれを固く結びつけていたものにナイフを入れ、一族はばらばらになってしまった」——チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』

弱さを認めぬ弱さ

 支柱が折れて瓦解する教会のまんなかで、降りそそぐ瓦礫の雨を2本の腕で支えようとした男がいた。

 時は19世紀、植民地支配前夜のナイジェリア。オコンクウォは、架空のアフリカ部族社会“ウムオフィア”(アチェベの出身地ナイジェリアの最大部族、イボ族の習慣をもとにしている)で最強の戦士として認められていた。稼ぐことも戦うこともできず、音楽を愛して借金まみれで死んだ父のようになることを病的に恐れ、父が愛したもの、音楽や感情、優しさを、軟弱で女々しいものとして、ことごとく憎んだ。

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

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