ボヘミアの海岸線

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『タイガーズ・ワイフ』テア・オブレヒト

 祖父はようやく口を開いた。「分かるだろう、こういう瞬間があるんだ」
 「どんな瞬間?」
 「誰にも話さずに胸にしまっておく瞬間だよ」
 ——テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』

トラの嫁と、不死身の男

 まずはわたしの話からはじめよう。曾祖父が曾祖母と一緒に住みはじめたとき、曾祖母にはすでに子供——わたしの祖父がいた。地元の名士であり信頼の厚い弁護士であった曾祖父が、生涯いちども掃除をせず風呂に数年に1回しか入らず、子供を餓死させかけた野生の曾祖母を養っていたのか、子供の父親が誰なのか、誰も知らなかった。さまざまな憶測が飛びかった。子供の父親は敵国の兵士だったとか、子供の父親と弁護士先生が親友だから引き取ったとか、政治取引の犠牲になったのだとか。社会的に認められた男が籍もいれず、人間よりは獣に近い女とその連れ子を育てることは尋常ではない。祖父はなにかを、あるいはすべてを知っていたようだった。しかし彼はあっぱれに逃げきり、すべてを墓の下に持っていった。生きているわれわれには、物語と伝説だけが残った。

 良いものも悪いものも、人生で極端なことに困惑すると、人々はまず迷信にその意味を求め、ばらばらの出来事をつなぎ合わせることで何が起きているのか理解しようとする、ということも学んだ。どれほど秘密が重大で、きっぱりした沈黙が不可欠でも、打ち明けたい気持ちを持った人は必ずいるのだし、解き放たれた秘密はとんでもない力になるのだと学んだ。

タイガーズ・ワイフ (新潮クレスト・ブックス)

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『デカメロン』ジョヴァンニ・ボッカッチョ|死の伝染病から逃れて百物語

この世の中では、誰でもとれるだけとっておくのがよろしい、ことに女の場合はそうですよ。女は使えるあいだに、男よりも時間を有効に使わねばなりません。——ジョヴァンニ・ボッカッチョ『デカメロン』

壮大なラテンの現実逃避

 世界の終末に生き延びたとしたら、なにを語るだろうか? カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』、アンナ・カヴァン『氷』のような終末の世界、凍りついた地平線、人類のほとんどが死滅した町、かつて高層ビルだった瓦礫の山、灰色の雨が降りそそぐ空、死が隣り合わせで先のことなどなにもわからない日々で、数少ない隣人たちと、なにを語り合うだろうか。14世紀のイタリア人たちは、とびきりゆかいな恋愛物語を話し続けた。

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『カンタベリー物語』ジェフリー・チョーサー

 「この盗っ人やろう、わたしを殺しやがったな。わたしの地所をとろうと思ったんだろう。でも死ぬ前に、おまえと接吻したいものだ」——ジェフリー・チョーサー『カンタベリー物語』

中世英国バラエティ番組

 いつの時代どの土地であっても、ゆかいな物語は人々の心を引き寄せるもの、そして見知らぬ人どうしの心をかよわせる潤滑油となる。

 時は中世イングランド、カンタベリー大聖堂へお参りする30人の巡礼者たちが、旅の退屈をまぎらわせるためにそれぞれ自分が知る中でもっともゆかいな話を披露する。おもしろい話をした人にはごちそうを、つまらない話をした人は全員の旅費を負担するーー中世イングランド版バラエティ番組とでもいったところだ。

カンタベリー物語 (角川文庫 赤 347-1)

カンタベリー物語 (角川文庫 赤 347-1)

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海外文学読みにおすすめする西洋絵画

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 アントニオ・タブッキ『レクイエム』に、登場人物がリスボンの美術館でヒエロニムス・ボッシュ『聖アントニヌスの誘惑』を眺めるシーンがある。はじめて本書を読んだとき、ボッシュも『聖アントニヌスの誘惑』も知らなかったわたしは、これほどまでに登場人物を惹きつけてやまぬ美術とはいかほどのものなのか、想像することも難しかった。

 そしてとうとう、本物を見てきた。本物はわたしが想像していたよりずっと小さかったが、取り憑かれたようにみいってしまう平面の魔物だった。なんという脳髄の快楽。そしてわたしは思ったのだった、ヨーロッパの文学を読むなら、それを育んできた大伽藍である西洋絵画のことを知れば、もっと楽しめるのではないかと。

 その予感は当たっていて、新しい小説を読んでいるときのように楽しい(わたしにとってこれは最高の褒め言葉である)。この1か月に読んだ本のうち、おもしろかった本を紹介する。

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『死都ブリュージュ』ジョルジュ・ローデンバック|町と自分と彼女の区別がつかない

 彼女は彼にとって、生きうつしの、明確な姿をした思い出だった。 ——ジョルジュ・ローデンバック『死都ブリュージュ』

町と自分と彼女の区別がつかない

 ベルギーの画家フェルナン・クノップフによる『見捨てられた町』*1を見たとき、なんて幻想文学の表紙にうってつけの絵だろうと思った。水際は建物にまで侵食し、すでにこの町は空っぽである。時計の針はとまっている。鳥のはばたきひとつ、風のうなりさえ聞こえない。

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 この見捨てられた町にはモデルがある。ベルギーでかつて栄えた海運都市、ブリュージュ。13世紀ごろには海運のためにヴェネツィアなみの財力と人口を誇ったが、15世紀ごろに廃れて衰退した。さて現在、世界にはふたつのブリュージュがある。ひとつは、衰退から復活し、明るい観光都市となったブリュージュ。もうひとつは、衰退の幻影を引き延ばし続けた架空のブリュージュ。画家が描いたのは後者、ローデンバックが構築した小説世界が編んだ幻影の町だった。画家は現地にはいっさい足を向けず、幼少の記憶と『死都ブリュージュ』から想起するイメージだけをたよりに、存在するが存在しない、幻影の町を描いた。

死都ブリュージュ (岩波文庫)

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『崩れゆく絆』チヌア・アチェベ

「白人ときたら、まったくずる賢いやつらだよ。宗教をひっさげて、静かに、平和的にやって来た。われわれはあのまぬけっぷりを見ておもしろがり、ここにいるのを許可してやった。しかしいまじゃ、同胞をかっさらわれ、もはやひとつに結束できない。白人はわれわれを固く結びつけていたものにナイフを入れ、一族はばらばらになってしまった」——チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』

弱さを認めぬ弱さ

 支柱が折れて瓦解する教会のまんなかで、降りそそぐ瓦礫の雨を2本の腕で支えようとした男がいた。

 時は19世紀、植民地支配前夜のナイジェリア。オコンクウォは、架空のアフリカ部族社会“ウムオフィア”(アチェベの出身地ナイジェリアの最大部族、イボ族の習慣をもとにしている)で最強の戦士として認められていた。稼ぐことも戦うこともできず、音楽を愛して借金まみれで死んだ父のようになることを病的に恐れ、父が愛したもの、音楽や感情、優しさを、軟弱で女々しいものとして、ことごとく憎んだ。

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

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『ギリシア神話を知っていますか』阿刀田高

誰もかれもが踊り狂う、情念の神々

 ギリシア神話はファム・ファタルのようだと思う。いちど読み始めるとその深さにはまり、砂時計に入ったように抜け出せない。次から次へと知りたい物語が増え、この神はどの神と浮気をしたのか、親子関係はどうなっているのかが気になって家系図をたどり、神々の理不尽さと激情にうめき翻弄されながらも目を離せない。2009年以来ぱったりと途絶えていたギリシア熱が、この春みごとにルネサンスして、つくづくその底知れぬ引力に驚嘆する。

 ギリシア神話のうちで著名な、かつ理不尽な、情念と欲望が渦巻く物語を12編おさめる。おもしろいことに、各エッセイのタイトルとなった登場人物は、エロスとオイディプスを除いてはすべて女性である。ギリシア神話では、女性たちは神々の情念の的となり、望む望まないにかかわらず、嫉妬と性欲、恨みと殺意のるつぼの中に放り込まれる。だからその人生はより悲劇性を帯び、作家の心をつかむのかもしれない。とまれ、女性たちの話ばかりではなく、恋人となる神々や英雄の話もきちんと出てくるので、ギリシア神話の著名なエピソードをひととおり網羅している。作家らしく、ギリシア神話の影響を受けた小説や劇、映画などをまじえて紹介されているのもよい。

ギリシア神話を知っていますか (新潮文庫)

ギリシア神話を知っていますか (新潮文庫)

ギリシア神話を知っていますか

ギリシア神話を知っていますか

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『河岸忘日抄』堀江敏幸

遭難の作法

 ふと、彼は思う。自分は、まだ待機していたい。待っていたい。だが、なにを待つのか?——堀江敏幸『河岸忘日抄』


 霧の深い夜には、たいそう派手な失恋をしてなんの知らせもよこさずに遠い異国へふつりと消えた、気狂いの友人を思い出す。失踪した理由をのちに尋ねてみれば、「誰にも知られずに、ひとりで本を読みたかった」。なんだあの阿呆はと思いつつ、似たりよったりのことをしているのはわたしだった。

 知人と記憶を持たぬ土地でもう数か月、呆然とし続けている。この数年ずっと「これは本物だ」と思っていたものを失い、積み上げてきたトランプの塔は崩れ落ち、真っ白な原稿の瓦礫となった。こうなる予感はすでにあったのか、すでに手に入れていた切符を手に、背負えるだけの手荷物を持ってここへ来た。どうして僕はこんなところに。あらゆる面倒な手続きをこなし、万難を排してこの地に臨みながら、いまなおこの問いへの答えが見つからない。

 おそらく世の中には、SOSも発さずに、異国や図書館で難破したくなる時期、あるいはそういう種類の人間がいる。友人やわたし、そして「彼」のように。

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄

河岸忘日抄

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『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』カート・ヴォネガット

いったいぜんたい、人間はなんのためにいるんだろう? カート・ヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』

絶望からくる博愛

 人は誰もが、小さな器を心に抱えてうまれてくる。うまれてまもなく、彼らをこの世に送り出した男女が水をそそぎ始める。この小さな器はその大きさに見合わず水をどんどん飲み干し、いっこうに満ちる気配がない。育つにつれて友人や兄弟、恋人など、水を注ぐ人は増えていく。底なしかと思われた器には水がたまっていき、やがてあふれる。そしてようやく乾きから解放されたその人は、周りの人の器をのぞき、それらの器に水を注ぐことを考えはじめる。

 人は、愛や優しさをじゅうぶんに受けなければ、他者にそれを与えることは難しい生き物ではないかと思う。もっとも影響を与えるのは、最初に無条件の愛と優しさをそそぐ親だ。しかし、家庭の環境に恵まれなかった人や、傷つきやすく繊細な人の器の底には穴があいていて、彼らは善良な人々からの優しさや愛をむさぼり食い、ときには腹いせに踏みにじりながら、器を満たそうとする。

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)

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『宝島』ロバート・ルイス・スティーブンスン

死人箱島に流れついたは十五人

ヨー、ホッ、ホー、酒はラムがただ一本

——ロバート・ルイス・スティーブンスン『宝島』 

だめな海商紳士

 なんという語りの魅力だろう。<ベンボウ提督亭>、<遠眼鏡亭>、片足の老海賊、秘密の地図、宝島の蛮人、仕事人の鑑のような船長、八銀貨と叫ぶオウム、なにもかもが彩り鮮やかにいとおしい。幼いころから病弱で、北の荒地を離れて世界を転々としたスティーブンスンは、最後の居住地サモア諸島では現地の人々から「語り部」と呼ばれていた。なるほど、彼の作品はどれも人に語り聞かせたくなるが、『宝島』は、含蓄もうんちくもなく、それでいて文句なしに楽しいという、奇妙な引力がある。

宝島 (光文社古典新訳文庫)

宝島 (光文社古典新訳文庫)

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『ジーキル博士とハイド氏』ロバート・ルイス・スティーブンスン

 彼らの言うことは一致していた。それは、その逃亡者が彼を目撃した人たちに言うに言われぬ不具という妙に深い印象を与えたということだった。——ロバート・ルイス・スティーブンスン『ジーキル博士とハイド氏』

身勝手であることの醜悪さ

 あまりにも有名なこの物語を読むことを先送りにしていた。ようやっと『ジーキル博士とハイド氏』を手に取ったのは、彼がうまれた土地を訪れたからだった。そこは血と雨を吸って黒く染まった石畳と石造りの建物がうねる古都で、小さな霧が出れば風が、風がやめば霧が立ちこめ、町の外には中世と変わらぬ荒野が広がっていた。薄暗く頬をなでる霧のなかを徘徊していると、なにかを見失いがちになる。みずからを失った哀れな男の物語はここでうまれたのかと、奇妙に腑に落ちた。

ジーキル博士とハイド氏 (新潮文庫)

ジーキル博士とハイド氏 (新潮文庫)

  • 作者:スティーヴンソン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1967/03/02
  • メディア: ペーパーバック

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Patience (After Sebald)、あるいはW.G.ゼーバルト『土星の環 イギリス行脚』


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 2001年、W.G.ゼーバルトは車を運転しているさなかに心筋梗塞をおこし、イングランド東部の道路で気を失ったまま横転した。57歳だった。抑制した筆致で、アクセルを踏むこともブレーキを踏むこともなく、記憶と記録を地すべりし続けた作家が、加速する残像の中で死んだのは、どうも似つかわしくないように思える。しかし、20世紀が終わってまもなく眩暈のように死へと足を踏み入れたのは、ある意味ではゼーバルトらしかったのではないか。


 『土星の環 イギリス行脚』でゼーバルトが歩いたイングランドの風景を丹念に追い、彼にまつわる証言や記録をおさめた映像 "Patience (After Sebald)" は、どこまでも白と黒のコントラストに沈んでおり、21世紀の光景だとはとうてい思えない。

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『ケルトの神話』井村君江

「あなた方ケルト民族が、もっとも恐れるものは何でしょうか?」
巨大なたくましい体をした、ケルトの戦士たちはこう答えました。
「わたしたちは、どんな人間も恐れません。ただわたしたちが恐れるのは、空がわたしたちの上に落ちて来ないか、ということだけです」

——井村君江『ケルトの神話』

渦巻く世界

ケルト文化において、もっとも尊敬される職業は詩人だった*1

 ケルトの民は、文字による記録をほとんど残さなかった。英雄たちの物語や王の系譜、法や教義は詩人たちが暗誦した。詩人は図書館であり、碑文であり、立法であり、修行には10年以上を要したという。詩人の機嫌を損ねては自分の物語を伝えられず、それは歴史における存在の死を意味していたため、王はときにその首を望まれるがままに差し出したと言われている。

ケルトの神話―女神と英雄と妖精と (ちくま文庫)

ケルトの神話―女神と英雄と妖精と (ちくま文庫)

*1:『ガリア戦記』では、ケルト人はドルイド僧、戦士、一般人(奴隷)の階層に分かれていたと書いてあるが、本書ではドルイド僧が法、政治、詩人へ分裂していったと書いている。

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『ヘンリー五世』ウィリアム・シェイクスピア

王の責任か! ああ、イギリス兵一同のいのちも、
魂も、借金も、夫の身を案じる妻も、こどもも、
それまでに犯した罪も、すべて王の責任にするがいい!
おれはなにもかも背負わねばならぬ。

——『ヘンリー五世』ウィリアム・シェイクスピア

王冠を戴く人柱

 この世をつつがなく生きるには、正気の計測器を意図的あるいは無意識に鈍らせることが必要で、計測器の精度が高い人、狂わせるには誠実である人が、いつだって人柱になるようにできている。正気で誠実であるほど、世界の矛盾と不条理を目の当たりにして気が狂う。だが、正気を手放したくとも、手放せない立場の人がいる。最も公正明大で誉れ高い、王冠を戴く人柱の物語。

ヘンリー五世 (白水Uブックス (19))

ヘンリー五世 (白水Uブックス (19))

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『北欧神話と伝説』ヴィルヘルム・グレンベック

 いまやスルトはただひとり戦場に立っている。彼は炬火を大地の上に投げ、こうして全世界は火炎に包まれて燃え上がるのである。——ヴィルヘルム・グレンベック『北欧神話と伝説』

血まみれの世界よ

 世界の中央には巨大な空隙があって、その北には氷に閉ざされた永遠の世界、南には灼熱に燃える果ての世界がある。その衝突から、さらにいくつもの世界がうまれ落ちる。これらの世界は遠く隔たっているが、巨大な世界樹の根によってつながれている。

 真空を漂流する原子模型船のような世界では、神々と巨人、人間が入り乱れ、血で血を洗い続けている。氷柱からしたたる滴のように、人が死ぬ。戦士はそれを栄誉ととらえ、無駄な生など長引かせまいと死んでいく。そして人と同じように神々もまた死に絶え、世界は炎に包まれて沈み、その終末をむかえる。

 ラグナロク、神々の黄昏により衝撃の終末をむかえる北欧神話は、いまなお西欧の文化にこんこんと息づいている。

北欧神話と伝説 (講談社学術文庫)

北欧神話と伝説 (講談社学術文庫)

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